夜明け前の少し冷んやりした外気と古い駅舎に染み付いた匂いが、この土地で過ごした日々の微笑ましい出来事の残り香を記憶の中から掘り起こす。先ほどまで同じ夜行列車で旅をしていた人がそれぞれの在来線のホームへと降りていく連絡通路は、昔からこんなに狭かっただろうか。幼い頃何度となく母に手を引かれながら弟と一緒に上り下りした階段を、僕は記憶の中の日々に向かって白新線の村上方面行きのホームへと降りた。今の自分も幸せだと思う。でも幸せとか不幸せとか、そんな単純な価値観ではなく、家族と新潟で暮らしていた頃、まだ僕と弟が幼くて、父と母との家族四人が同じ家に揃うのが当たり前だったあの頃が、生涯において自分が最も愛されていた時期のように思う。例えその頃にどんな辛いことを経験したとしても、年を重ねて恋愛をして社会に出て仕事を始めれば、辛い経験や痛々しい経験などはどんどん更新されていくものである。子供の頃の自分の悩みが、なんだか小さなことだったようにも思えてこなくもない。けれども両親から愛されたあの感覚だけは、どれだけ年を重ねても、他の感覚に置き換わったり、それを超えることはないように思う。ときどき、認知症を患った老人が子供のようになってしまったと聞くが、それは子供に戻っているのではなく、様々な記憶を呼び起こすことが困難になり心の中がどんどん静かになっていっても、自分が最も愛された幼い頃の記憶だけは最後まで心の中に太陽のように輝き続け、その光の中で、最後の時を生きているのではないだろうか。
白新線の始発列車である五時一分新潟発村上行き快速電車が出発すると、すぐに住宅街が目につくようになる。東新潟駅付近の線路沿いに建てられたアパートの連なりを特によく覚えている。大形の駅を過ぎてから鉄橋に至り川幅980メートルに達する阿賀野川を渡りながら、幾度となくこの川を家族で渡ったことを思い出した。電車が鉄橋を渡る音は懐かしい。この音を聴きながら、僕と弟は電車の窓から雨の日の荒れ狂う阿賀野川や晴れた日の凪いだ阿賀野川を眺めて、「この川は一級河川なんですよ」と母が僕と弟に教えてくれるのが常だった。
ふと車内を見渡すと、意外にも人が多い。数えてはいないが、同じ車両に10人ちょっとは乗っているだろう。それぞれが大きな荷物を抱えているから、全員が僕と同じ二十三時十分新宿発の夜行列車で新潟に到着した人に違いない。中にはこのまま北上して山形に向かう人もいるかもしれない。日本中から人が集まる東京を出発したたった一本の夜行に乗っていた人の中からこんなにもたくさんの人が自分と同じ故郷を目指しているということが、なんだかとても不思議に思えた。同時にこの人たちもあの競争社会の中で目的に向かって働いているのだと思うと、頭が下がる思いだった。僕は都会が好きだ。高層ビルが立ち並び、その明かりやその足元に形作られた人工の形ある難解で不明瞭で簡潔で清潔な空間がいわゆる都会の雰囲気というもので、それが僕には心地よかった。人よりも新しいものに囲まれている感覚が心地よかったとも言えるかもしれない。
豊栄駅に電車が止まったとき、意外にも想像していたような感情の変化は感じられなかった。ただ胸の奥に沸々と苛立ちのような不安のような落ち着かない何かの感情が立ち上がるのは感じるが、それは感情と呼ぶにはあまりにも些細で煩瑣な感覚に過ぎない。ホームや駅舎、そして隣接する二階建ての屋根付き自転車まで全てが新調されていて、田んぼが広がっていたはずの駅の裏側はすっかり住宅地に変貌していた。つまりはこの街は、昔と今ではすっかり外見が変わってしまっていた。ただ通り過ぎるだけでいいのである。
そして豊栄をすぎると、線路の両脇に広大な田んぼの風景が広がる。線路の脇には田んぼに水を供給するための小川があり、田んぼにはまだ青いが粒が大きく育ちこうべを垂れ始めた米が美しく盛っていた。どこまでも広がる田んぼを端まで追いかけると、遥か向こうに青々と飯豊連峰が見える。風や大地の息吹を田んぼを介して見られる場所である。遥か遠くを走る電車の音が聞こえるように、虫の音や自分の息遣いを身近に感じられる静かで豊かな場所である。ふと飯豊連峰の頂き付近から光が噴出し始め、あらゆるものの色が変わり始めた。稲はより豊かに青々と見え、田んぼ脇を流れる小川は光輝いて見えた。僕は一生懸命にこの光景を心に留めようとした。そして僕の視界は僅かに歪み、僕は決してこの土地が嫌いなわけではなかったのだと思った。
景色に見惚れていると、田んぼの中に細い実が一本通っているのが目に入った。この道は、僕ら家族が新潟で経験した最後の冬に、当時まだ十二歳の小学六年生だった弟が、大雪の日に一人で歩いて四駅先の祖父母の家を目指した道である。当時僕らの家族は豊栄に住んでおり、近所の公立の学校に通っていた。弟は小学六年生、僕は中学一年生だった。
弟は幼稚園の頃は人見知りで、友達を作るのに苦労した様子だったが、小学生になるといつでもクラスのムードメーカーのような存在で、明るく活発で正直な性格は多くのクラスメイトから人気があった。マラソン大会では常に優勝争いをし、よく陽に焼けて声が大きく、正しいことをはっきりと言える弟の性格を、僕は何度も羨ましいと思った。
一方の僕は根暗で、本を読むことが好きだけれどもイタズラ好きというちょっと変わった性格だった。それなりに友達はいたとは思うが、毎日一緒に遊ぶような友達はいなかった。音楽が好きで、親に頼んでピアノに通わせてもらった。僕らが通った小学校には吹奏楽部があり、五年生になった時に入部してトランペットに夢中になった。僕らの吹奏楽部は夏季にはマーチングにも力を入れており、僕が入部した年から県の最優秀賞を得て二年連続合計四つの関東大会に出場することができた。そして弟も、僕の真似をするように吹奏楽部に入部してトロンボーンを吹いた。僕は弟と違って運動があまり得意ではなく、靴を選ぶにしても運動靴よりも革靴が好きで、どういうわけかワイシャツとネクタイを好んでいた。それに遠いご先祖様に誰かそういう人がいたのか、いや甲信越や東北出身者にはかなりの割合でこういう見た目の人がいるのだが、僕は周囲と比べてかなり色白で、髪の毛は脱色したかのような栗色だった。小学生の高学年まではよく女の子と間違われるような見た目だった。自分では自分の見た目が変わっているとは思わなかったが、周囲の人間は何かを思っていたらしい。それに加えて、今も昔も僕は人付き合いというものがよくわからない。だから僕はよく人間関係のトラブルに巻き込まれた。
ある時、僕の何かの言動が原因で、クラスメイトの一人が癇癪を起こした。僕は教室から廊下に連れ出され、壁に投げつけられ、腹部をクラスメイトが前から蹴りつけた。痛かったし、抵抗することができずにあとどのくらいこれが続くのかなどと考えていたら、「やめろー!」と廊下の端から誰かが怒鳴る声がして、弟がすっ飛んできた。危うく僕を殴打していたクラスメイトに飛びかかりそうだったので、僕は一生懸命に弟を抑えて遊んでいただけだと告げた。弟はそういう性格なのだ。この時は弟に助けられたことが恥ずかしくもあったが、同時に心の底から弟を尊敬し、ありがたいと思った。そして彼にとって良い兄でありたいと思った。
しかし中学校に入ると、僕はもう活気ある吹奏楽部の一員ではなくなった。中学校にあった吹奏楽部は、部員のほとんどいない、誰にも導かれない部活だった。扉を開けると50名ほどの部員が奏でる重厚な音圧を体で感じられた、あの輝きに満ちた音楽室ではなく、中学校の吹奏楽部は、扉を開けると誰もいないか、数名が眠たい音で何かを吹いているような部活だった。小学校で一緒に夏休みも冬休みも春休みもなく毎日一緒に練習し続けた吹奏楽部のメンバーたちは、まるでその情熱が燃え尽きてしまったかのように誰も中学校の吹奏楽部には入部しなかった。そして僕も、中学校の吹奏楽部には入部せずに、僕を可愛がってくれる先輩に会いに時々音楽室に遊びに行くような存在だった。そして冗談のような本当の話だが、夏の大会の二週間前に吹奏楽部の顧問に呼び出され、人手不足を理由に二週間だけの練習でティンパニーを叩かされた。はじめは無理だと断ったが、リズムがわかるならやれるはずだと説得されて、愚かにも納得してティンパニーの前に立ってしまった。この弱小吹奏楽部は夏の大会であっという間に予選敗退したが、原因は僕が何をやっているのかもわからないままに叩いたティンパニーだったようにも思う。誰にも教えてもらえなかったので、二週間の間必死に演奏楽曲のテープを聴き続けた。おかげであれから長い年月が経った今でも脳裏のあの戦慄とティンパニーの打楽部分がフラッシュバックしてくる。そして中学一年の夏が終わりに近付いた頃、僕は中学生活に適応することができなくなっていった。友人だと思っていたクラスメイトから度重なる裏切りや嫌がらせ、そして肉体的な暴力は日毎に激しさを増し、自分一人では抱えることができないほどになっていた。この時期、僕は最初の遺書を書いた。死というものを実感として何ら理解していなかったが、死ぬことを決めた人間が遺書を書くということは知っていた。何を書いたのかは覚えていないが、それほど深刻な気持ちで書いたのではなく、疲れ切ってロマンスに浸るような気持ちで書いたことを覚えている。
すごいのは僕の母親である。僕の異変に気付き、中学校で何が起こっているのかを僕に問いただした。はじめは何をどう答えていいのかわからなかったが、母は点と点を結ぶように根気強く僕に質問をし続け、たぶんその夜のうちに、冬休みを待って僕を転校させることを決めて、東京で働く父に電話をしたと思う。この時、心の何かがスーッと軽くなったのを感じた気がした。母もこの時期、町内会長をさせられていたが、母はめちゃくちゃに仕事と家事ができる人である。町内会費の使い方や運営方法まで、いろんな慣習を正そうとして古くから町内会に関わる人から攻撃されていた。そんな人だから、やると決めたことはすぐにやる人である。決めるのも早い。ちなみに母のこの能力は東京に出て母が会社に就職すると、すぐに会社から頼られる存在となり、会社を退職してもしばらくは懇親会に呼ばれたり相談の電話がかかってくることがあった。しつけに厳しく数えきれないほど怒鳴られたし打たれもしたが、僕ら兄弟が何か悪さをして他人に怒られると、母はまずその人に親として頭を下げて詫びて、その人が僕ら兄弟を叱ってくれたことに感謝をして再び頭を下げた。母はそういう人である。
冬休みが終わって、一月から僕は父の実家から父が通った中学校に転校した。しかし弟は両親がどう説明しても転校に同意しなかった。僕のせいで弟が転校しなければならないと、兄弟喧嘩をしなければならないこともあった。この頃から弟は家族に対するストレスを感じるようになっていたように思う。弟は友達と離れたくないと言った。僕の脳裏に、幼稚園の頃の極端な人見知りで、よく熱を出していた弟が思い出された。このとき僕は、そうか弟も努力をして元気で正直なムードメーカーになったのだと知った。当たり前のことだが、僕や両親が知っている弟は、僕たちがみることができる弟である。学校や友達との付き合いの中で、どんなふうに努力や葛藤をして自分を作り上げてきたのか。それが僕にはわかっていなかった。自分の居場所を手に入れるということを凄く自然にやってのける人もいれば、僕のように何も考えずに感覚的に行動するから自分の居場所を手に入れられない人間もいるし、考えて努力して人に認めてもらえて自分の居場所を手にいれる人間もいる。きっと弟はそういうタイプの人間なのだ。結局、僕ら家族は父が建てた豊栄の家を借家にし、父の実家つまり祖父母の家に引っ越し、弟はそこから電車通学をしてそれまでと同じ小学校に通うことになった。駅の間隔にして四駅、車では二十五分ほどの距離である。
ある大雪の日、僕はいつも通りに祖父母の家から徒歩で15分ほどの中学校から帰宅して温まっていたが、弟はなかなか帰ってこなかった。小学校の吹奏楽部の練習が終わって午後六時頃、駅に向かって歩いて、電車に乗って二十分、いつもなら午後の七時になる前には家の門扉が開く音がして、足音が聞こえて、弟が玄関の扉を開けるはずなのに、この日は七時を回っても七時半を回っても弟は帰ってこなかった。母が最寄り駅まで弟を探しに行ったが、弟はいなかった。ただ駅で得た情報によると、大雪で電車が遅れているとのことだった。しかし遅れているとは言っても、全く走っていないわけではなく、すでに二本の電車が豊栄方面から到着していた。しかし弟はいない。当時はまだ世の中に今のような便利な携帯電話が普及しておらず、一部のビジネスマンがポケベルやPHSを所持し始めた時代である。駅の改札も自動改札ではなく、駅員さんが手作業で切符に切り込みを入れてくれて改札を通っていた時代である。母は弟が体調を崩してどこかで動けなくなっているのではないかと心配している様子だった。祖父母の家から母が豊栄駅に電話をして、待合室に小学生の男の子がいないかと尋ねると、「確かにいたけれど、今はいない」という返事があった。服装の特徴も弟の服装に合致した。しかし「いた」とはどういうことか。「電車には乗ったんですか?」という母の問いかけに、駅員さんの返答は「改札は通っていない」というものだった。それから母は、電車が遅れているから友達の家に行ったのかもしれないと心当たりのある弟の友達の家に電話をかけてみるも、弟はどこにもいなかった。





























