午後八時二十分を過ぎた頃、祖父母の家の電話が鳴った。母が電話に出ると、弟からの電話だった。黒山駅と佐々木駅の中間の、県道沿いの駄菓子屋さんか文房具屋さんからの電話だったように記憶している。先ほど弟はそこに徒歩で辿り着き、保護されていた。母は家主の方から住所を聞き、すぐに車で向かった。僕も後部座席に乗り込んだ。新潟の夜は暗い。土地が広いうえに、民家や店舗が点在する道の両脇には田んぼが広がっていることが多く、そこにはまばらな街灯があるだけである。当時からすでに県内の主要道路には地下水を利用した消雪パイプが整備されており、どんなに酷い積雪の日でも主要道路には中央部から常に水が流れて、道路が雪で凍りつくことはなかった。しかしそれでも、この夜の大雪は、かき氷のようになった溶け切らない雪が大量に道路の上に残り、消雪パイプからの水が届かない道路脇の歩道にはかなりの積雪が見て取れた。この夜、弟はいつも豊栄駅から乗る電車を逃してしまったらしい。そして後続の電車が遅れることを知った。だから歩いて家に帰ろうと考えたらしい。とりあえず線路を辿っていけば家に帰れると考え、線路脇の田んぼの中の道を歩いたという。真冬の田んぼには農家さんですら行かない。弟は道と呼んだが、一晩で小学生のへその高さほどに降り積もってしまう大雪の最中にそこに道が見えたとは考えにくい。おそらくは弟は線路のあかりを頼りに、そこにあるはずの道を心の中に思い描いて、田んぼの中を突っ切って歩いたのだろう。しかし大量の雪に阻まれて、なかなか前に進むことができなかったという。途中二度ほど電車に追い越されたらしい。やっとのことで車が走る道路に出て、たまたま開いていたお店に入って助けを求めたのだという。本当に無事で良かったと思う。少し何かが違えば、命を落としていてもおかしくはなかった。県道脇に車を停めて母が弟を迎えに行っている間、僕は一人で車のなかに残った。母と弟の帰りを待つ時間が凄く長く感じられていた。弟が無事だったことは嬉しいが、帰ってきた弟にどんな言葉をかけたらいいのか、僕にはどう考えてもそれを見つけることができなかった。
あの頃は家族みんなが、生きづらさを感じていた。母もそうである。世の中一般的にいう、嫁姑問題が、我が家にもあった。それが元から存在したのか、僕たち家族の引っ越しが原因でそれが発生したのかは僕にはわからない。祖母は確かに僕をよく愛してくれたが、それは家族に対する平等な愛とは少し違っていた。長男である僕だけを特別扱いする傾向があり、布団の使い方や掃除の仕方、食事の味付けまでとことん母を攻撃するようなものの言い方が目立った。祖母はきっといい人だったが、僕にとって大切なものを祖母も大切に思おうとはしてくれなかった。僕は何度か、母と弟をもう少し大切にしてくれるように祖母に頼みに行ったが、その度に祖母が僕にいうのは「お母さんに洗脳されてしまって」というものだった。僕は自分の言葉が祖母には伝わらないのだということをなんとなく理解した。そして段々と家族に対して反抗的な態度をとり始めるようになっていた弟は、母を守ろうと祖母に対してあからさまに反抗的になり、そんな弟を見てますます祖母は母を罵倒するようになった。母は一度だけ涙を見せたことはあったが、僕たちに一度たりとも疲れた様子を見せたことはなかった。母は頭のいい人であり、責任感の強い人である。なんとか僕たち兄弟を守ろうと必死だったに違いない。
そして祖母についても、今にして思えば、僕ら家族が引っ越してきたことで、生活のリズムが変わってしまっていたのかもしれない。リュウマチによる痛みで体の自由が制限されていた祖母がよく言っていたことが、「自分がこの家の直径であり、おじいちゃんは婿養子なのだ」ということだった。だから自分たちをもっと尊重しなさいと、そういう気持ちが、母への言動につながっていたのかもしれない。僕ら兄弟はうるさかったし、風呂に入る時間も、朝起きる時間も、様々なことが祖父母の生活リズムを乱していたのかもしれない。この当時起きていたトラブルの発端は全て、僕が地元の中学校に通えなくなり転校をするための引っ越しに起因していた。
だいぶ後になってから知ったことだが、母がなぜ豊栄の家から僕を父が通った中学校まで電車通学させることを選ばなかったのか。家の郵便受けに封筒に入ったカミソリの歯が投函されていたことがあるらしい。回数について母は何も言わなかったのでわからないが、投函していたのは間違いなく、僕の当時のクラスメイトである。
ともかくも祖父母の家での生活は、母にとっても弟にとっても、簡単なものではなかった。もちろん僕にとっても、気が休まる時がなく家の中で疲れていた。この生活が始まって二ヶ月が経った時、これ以上この生活を続けることはできないと僕たち家族は理解した。この頃の父は東京の会社で働いており、単身生活をしていた。だから家族で話し合った結果、家族で東京に引っ越すことになった。ただ弟だけは、地元に残り地元の中学校に通うことを希望した。しかしそんなことは許されず、弟は今度こそ友達と離れて誰も知らない東京に引っ越すことになった。
***
東京では僕たち兄弟江戸川区小松川の公立中学校に通った。僕は中学二年生の転入生として、弟は中学一年生の新入生だった。校舎や教室は新潟の小中学校に比べるととても狭くて古く、こんな小さなグラウンドでどうやって体育祭をするのかと心配になったのを覚えている。クラスで僕は「新潟の田舎から来た色が白い子」として見られた。このレッテルはクラスメイトからの不要な嫉妬心を抑制する効果があり、楽に新しい生活をはじめられるはずだった。僕は全く違う自分になりたかった。同じクラスには檜山という男子生徒がいて、僕たちは同じ高層マンションに住んでいることがわかったため、すぐに一緒に登下校をするようになった。檜山は僕より少し背が低く、僕と同じように色白で、サラサラの髪を中わけにして、アイドルにでもなれそうなあどけなく綺麗な顔立ちをしていた。
僕は東京では音楽ではなく何かスポーツをしたいと思っていた。それまで運動部に所属したことは一度もない。どちらかといえば運動は苦手だと思っていた。ただ僕は全く違う人間になりたかった。スラムダンクに憧れてまずはバスケットボール部に仮入部したが、僕のバスケットのセンスの無さはあらゆる意味で悲惨だった。二週間の仮入部を経て、僕は自分がバスケットに心底向いていないと理解し、顧問には入部しない旨を伝えた。バスケットセンスと書いたが、実は僕は球技全般が苦手である。もっとシンプルな競技がいいと考え、次は陸上部に仮入部した。種目は短距離を選択した。走るためのトレーニングなどしたことがなかったが、全力で走って汗をかくというシンプルさが楽しかった。何かの憂さを晴らすように全力で走り、文字通りクタクタになった。そしてその次の日、僕は生まれて初めての信じがたい全身の筋肉痛に襲われたが、自分がスポーツをしたという充実感があった。その後僕は陸上部に入部した。
時を同じくして、転校してすぐに、この学校には不良がいっぱいいることを知った。東京の下町は家庭環境が悪いものや複雑な子が多く、学校に来たり来なかったり、奇抜な格好をしたり授業中に暴れる者もいた。いま思えば、そのような生徒たちには可哀想な境遇の者が多かった。その中に一人、同じクラスに、わりと体が大きい佐藤という生徒がいた。下町である小松川にかろうじて存続していた小さな銭湯の上のアパートに住んでいる生徒で、あまり学校に来ない者だから授業にはついていけずに、いつも退屈そうに、眠そうにしていた。この佐藤が休憩時間に退屈凌ぎにやっていた遊びは、クラスの中で一番背が低かった石黒という苗字の生徒に命令をして、女子生徒の胸を触らせるというものだった。何度かそれを目撃していたから、あるとき「くだらない遊びをやめろ」と注意をした。その次の日の昼休み、気がつくと教室からクラスメイトが全員いなくなっており、前後の扉を閉められた教室には佐藤と僕の二人だけになった。雰囲気からどういう事態かはすぐに理解できたし、「調子にのるな」といって胸ぐらを掴まれたあたりまでは、まだ相手を言葉で落ち着かせようとする余裕があった。しかし体重をかけられていよいよ机の上に押し倒されそうになると、もはや言葉は意味をなさないのだと理解した。僕は全く違う人間になりたかった。意を決して右の拳を相手のこめかみに叩き込むと、意外にも簡単に相手は姿勢を低くして壁際に交代した。だから僕は佐藤から反撃がくる前に無我夢中で右手を振り下ろし続けた。何発殴ったのかは覚えていない。気がつくと教室のドアが開いていて、クラスメイトたちが騒いでいた。
それから僕たちは別々に職員室に呼ばれて事情聴取をされたが、今回のことは明らかに相手に非があるため、僕が特に罰則を受けることはなかった。ただ担任の教師が母親に語ったことによると、この学校は不良が多く、今回の喧嘩に勝ったっことで僕が不良たちの仲間に引き入れられないかが心配だ、ということだった。それからしばらくして、いつも登下校を一緒にする檜山が、友達を紹介すると言ってきた。僕は放課後に友達と遊ぶということがあまりなく、あまり気乗りがしなかったが、檜山があまりにも進めるので、行ってみることにした。家に帰ってから着替えて、マンションのロビーで檜山と合流すると、僕たちは同学年の他のクラスの男子生徒の家に向かった。そこはすごく狭くて乱雑に散らかった家だった。こんな乱雑なところでよく生活できるなと思うような場所だった。その家に大人の姿はなく、同い年の男子生徒が一人でいた。背が高く金髪で丸顔で少し姿勢が悪い彼は、確かに学校で何度か見かけたことがある顔だった。「喧嘩強いんだって?よろしく」そう言って差し出された右手を僕も握り返すと、彼はおもむろに床に置かれた座布団に座り、煙草を取り出して口に咥えて、火をつけた。檜山も、自分の煙草を取り出してそれを口に運び、自分のライターで火をつけた。「煙草を吸うか」との問いかけに「僕は吸わない」とその時は答えた。二人は「そうか」と言ってそれきりその日は僕に煙草を勧めることはなかった。今でもすごく興味深いことなのだが、彼らは僕に何も強制することはなかった。無理やり煙草を吸わせようとすることはなかったし、無理やりアルコールを強制することもなかった。ただ毎日を憂鬱そうに、疲れたように、力なくどこかに座ったり寝転んだりして、煙草を吸いながら、誰かの喧嘩の話や僕の知らない不良の先輩の話などをして過ごしていた。そして自然と、僕も興味本位から煙草を吸うようになっていた。そんな僕の生活の変化が弟を傷つけているとは全く考えずに、僕は少しの怖さを感じながらそれまで知らなかった刺激にワクワクして彼らとの関係を続けた。
しかし段々と、喫煙が陸上競技の邪魔になっている気がしてきた。そして陸上部に入学して3ヶ月がたった頃に僕は初めての試合に百メートル走の選手として出場し、そのレースを走った八人中七位、当然ながら準決勝にも進めずに予選落ちという散々な敗退をした。その次の日から、部活が終わって家に帰ってからも一人で夜の荒川沿いを走って練習をした。自然と僕は煙草をやめた。それから不良グループとは様々な揉め事があった。次第に他の学校の不良との付き合いや、顔も見たことがないおそらくはどこかの頭の悪い高校の不良たちから集金の依頼があったとか、興味本位では済ませられない境界線が目前に迫ってきているように感じられた。そしてある事件をきっかけに、僕は彼らのグループから抜けることにした。最後にした喧嘩は、喧嘩にもならなかった。僕は喧嘩をしたくなかったから、手は出さずにただただ殴られ続けた。
そして中学二年生の冬に行われた記録会で、僕は東京都大会の百メートルに出場するための標準記録を初めて突破した。そして僕は中学三年の夏に、都大会予選を突破し、都大会に出場した。都大会ではもちろん、予選を一回だけ走って敗退した。しかしこの小さな成果は、吹奏楽を頑張っていたとき以来、頑張ったら結果が出るということを実感した久しぶりの経験だった。そしてこの頃、弟は陸上競技の大会に初出場する。一年生の頃は「顧問が新人だから」という理由で陸上競技部への入部が認められなかったが、中学二年生になった弟は堂々と陸上競技部に入部をし、初めて大会に出場した。種目は男子一五00メートルだった。他の学校の生徒からしてみると一年間練習期間が短い。弟が一人で河川敷を走って自主練をしていたのは知っているが、専門的なトレー人ができたわけでもない。だから弟はほとんど才能のみで走らなければならない。しかしいざレースがスタートしてみると、弟は二0校あまりの代表選手の中で首位争いをしていた。一時期にはトップにも立った。結果はレースで三位だったように記憶している。負けはしたが、弟の実力を十分に周囲に知らしめた素晴らしいレース内容だった。僕は当時の弟の夢は知らないが、走ることが好きだという弟の純粋な気持ちが運命に裏切られることなく弟が走り切ったということが、何よりも嬉しく、弟と一緒に涙を流したことを昨日のことの様に覚えている。僕たちは嬉しい時にも涙は出るのだということを学んだ。
高校受験を終えると、僕は不良がただの一人もいない高校に進学した。本当にただの一人もいなかった。誰かに迷惑をかけたり、誰かをいじめるたりするような暇な人間が、少なくとも僕の学年の四つのクラスには一人も居なかった。一年生の途中から髪の色が変わった生徒は何人かいたが、彼らは不良ではなく、誰も彼も部活を一生懸命にしていたり、バイトを一生懸命にしていたりと、何かを頑張っている人間ばかりだった。高校に来なくなるような人は、女の子に一人だけいたが、彼女を除いてはみんな学校に来て、親しくはなくても誰とでも気軽に挨拶をしたり声をかけたりすることができる雰囲気があった。





























