Crascul-Ignission

答えのない問いを共に考える、静かな学びの場

エッセイ

夜明け前

しかし三月になった頃だと思う。突然弟が倒れたと母から連絡がきた。指定された東京タワー下の某大学業院に到着し救急外来に弟を尋ねると、すでにそこには両親がいて、弟は顔中に風疹のような赤い発疹ができていたが、意識ははっきりとあって重症ではないように思われた。しかし弟はなかなか担任することができなかった。どういうわけか入院して一週間三日か四日が経つ頃には、少しずつ言葉の出が悪くなってきて、一週間が経つ頃には、言葉を扱うことにかなりの困難を伴うようになった。言いたいことはあるのに、それが言葉と結びつかないような、そんな様子だった。そして三週間が経つ頃には、弟は完全に言葉を失った。脳から異常な電気信号が出ているらしく、定期的に体が痙攣をはじめた。その表情からは次第に人格が失われ、その様子を見ている僕たち家族は、弟が少しずつ失われていくような感覚があった。けれども生きてさえいてくれればそれでいいと、僕たちは話していた。弟の脳が自分自身をこれ以上攻撃することを抑制するために薬で脳の機能を低下させる処置が取られたため、弟は起きている時間が極めて短くなった。体には何本もの管や線がつけられ、二十四時間体制で弟の体のデータが取られた。僕たち家族にとって、本当に長い戦いの始まりだった。ある時、発作が起きている時に医師が弟に対して行った簡単なテストの録画を見せられた。医師は様々なものを寝たきりの弟の目の前に差し出し、「これはなんですか」と質問をする。弟はか弱い声で何かを答えようとするが、ほとんどのものの名前を答えることができない。そして医師がハサミを差し出した時、弟は「シ、シズ」と力なく声を発しているのが画面に映し出されていた。その時、僕は咄嗟に言った。弟は英語が堪能なこと。だからこれはハサミと発音しようとしているのではなく、シザーズと発音しようとしているのではないか。日本語が使えないなら英語を使おうと、懸命に自分の運命に逆らっているように感じられ、僕の弟は本当に強い人間だと思った。それを聞いた医師は、興味深いというような表情をしていたが、僕たち家族は、弟が懸命に戦っているのだということを再認識した。弟はまだ、何にも負けてはいなかった。

しかし医学界にはなかなかこのような症例の事例がなく、当然ながら確立された治療方法が無かった。医師は治療をするというよりも弟の病状の原因を理解するために様々なアプローチをためしている、というのが僕の印象だった。その最たるものが、弟の主治医が脳神経外科医の医師から解剖学の医師に変更になったことである。弟の病状の原因については、「疲労とストレスによる脳のオーバーヒートにより誘発された癲癇症状」という表現が使われた。弟は寝る間も惜しんでバイトと車いじりとインターンに没頭していたからである。そんなことがこの症状の理由になるのか誰もが疑っていたし、もしそうだとしたらという過程のもとで、誰もが弟を休ませることができなかった自分を責めていた。ある日、医師による病状説明があるというので、僕は会社を早退して病院へと向かった。地下鉄都営三田線の最前列に乗ると、偶然にも父が同じ車両にいた。二人で地上に出て病院に向かって歩いている最中、父が何かおかしなことを言い出した。うまく聞き取れなかったのでふと父の家を見ると、父は泣きながら、弟の暴走的とも言える生活の乱れを咎められなかったことを悔いて、僕に謝っていた。そして父は「ばあちゃんが亡くなった時も辛かったけど、それ以上に辛いことがあるなんて思わなかった」と続けた。僕は父の涙を見てしまったことがショックだった。ただ誤解の無いように、父に失望したのではなく、いつでもどんなことにでも解決策を持っている父ですら、今回は解決策を見出せないのかという事実に、僕はショックを受けたのだ。医者ではない父が病気に対する解決策を持っていないのは当たり前なのだが、僕はいつもどこかで、家族が集まればなんとかなると信じていた。でも今回は、家族全員が打ちのめされて、疲れていた。そして僕は、実際には父に言えなかったが、言いたかった。悪いのは父ではない、弟が大雪の夜に田んぼの中を一人で歩かなければならない状況を作った僕なのだ。

この時期、同じ病院に入院している末期癌患者という人から、両親は仕切りに新興宗教の勧誘を受けていた。名前を聞けば誰でも知っているような新興宗教だ。普段ならばそんな話に聞く耳を持つ両親ではないが、ある夜、仕事を終えて家に帰ると、両親がまだ寝ないで僕を待っていた。そしてその新興宗教のパンフレットを僕に見せながら、どう思うかと相談をしてきた。僕がしっかりと反対をすると、両親は二人とも息を飲んで我に帰ったような、少し安心したような表情をした。両親はそこまで追い詰められていた。特に母は、変わり果てた弟を見るに耐えかねて、立っていられなくなりそうな状態だった。それを一生懸命に父が支えた。本当に、家族の総力戦の戦いだった。

そして僕が参加できなかった主治医からの病状説明で、両親は衝撃の提案を受けることになる。弟の脳における異常な電気信号は全て右脳から発信されていた。だから右脳を摘出したらどうか、というものだった。この判断は、父に委ねられた。医師がそうしたらどうか、というのだから、そうした方がいいのかもしれない。でも原因が明確にわかってもいないのに、右脳を取り除くなどという乱暴なことをしていいのかどうか。結果的に父はこの提案を拒否し、弟の治療には別の方針が適用されることになった。それは弟の体を電気的にシャットダウンして、いつかまた再起動してみようというものだった。具体的には薬を使って脳の機能や必要最低限の臓器の機能を除いて、全ての体の機能を停止させる。呼吸もできなくなるので弟には人工呼吸器が取り付けられた。そして弟の体はシャットダウンされた。

それから僕は、週末だけ病院に行くようになった。母から「あなたまで体を壊すから無理をするな」と言われたからだ。僕は猛烈に働いていた。ITベンチャーに就職した僕は、技術を覚えて早く会社の利益に貢献しようと休みなく勉強を続けていた。仕事は毎日わからないことを発見するばかりで、走っても走っても結果に追いつけない日々が続いた。会社は浅草から歩いてすぐの蔵前にあったため、自然と僕には一つの習慣が生まれた。毎日浅草寺に通い、弟の回復を祈った。僕は自分の幸運の全てをかけて弟のために祈った。そしてこの習慣は雨の日でも欠かすことなく、毎日続けた。

季節は春から夏になっていた。弟の体をシャットダウンしてから三ヶ月がたった頃、医師から弟を目覚めさせてみようと言われた。当日僕は夜遅くにしか会社を出ることができなかったが、弟の覚醒には実に多くの人が立ち合ったらしい。医師や看護師総勢十五名程、そして弟の当時の恋人である。彼女は救急認定看護師の資格を持ち、他の大学病院の救命救急で働く看護師だった。だから、彼女は弟を心配するあまりに、この大学病院の医師たちの治療方針や治療そのものに関心を持ち、その結果、医師たちから「彼女を病室に入れたくない」と言われてしまっていた。しかしいよいよ弟が目覚めるかもしれないこの日、母が彼女に連絡をして、五分だけという条件付きで彼女を集中治療室に入れることができたのだった。弟をシャットダウンする前、僕たちは医師から説明を受けていた。弟が目覚めた時、全ての記憶が無くなっているかもしれないと。けれども僕たちは、実はそんなことはあまり重要ではなかった。弟がこの世の中に存在している、ただそれだけが僕たちには重要だった。けれども若い二人の恋人には、そこにはある種の恐怖があっただろう。母がいうには、弟の脳が段々と覚醒状態に近づくと、医師たちは弟の名前を呼び肩を叩きはじめた。そしてついに弟が目を開けた時、そこには彼女の顔があった。「わかる?」という問いかけに、弟は頷いたそうだ。弟が彼女を認識しているということが嬉しくて、弟も涙を流したらしい。けれども人工呼吸器に繋がれて寝たきりの弟は体を起こすことも声を出すこともできない。だから彼女は自分を指差して、それから弟を指差して、そしてまた弟が頷く。そうした行為を二人で繰り返しながら、気がつくとあっという間に十五分が経っていたらしい。面会の条件として認められた五分はとっくに過ぎていたが、看護師たちもこの光景に涙を流しながら、誰もこの二人を止めることはできなかったという。

覚醒した弟は見事に全ての言葉を失っていた。喋ることができないものだから、意思の疎通にはかなり苦労したが、母は僕らが幼稚園の頃に使っていたようなあいうえお表を作成して言葉の習得をさせようとした。ただそのうちにわかったことは、弟の頭の中には例えばコップやペンなどの物の概念は存在しているが、それを言葉にして発音する記憶(?)との連結ができていないようなのである。だから一度その言葉を苦心して発音すると、次からはさして苦労することなくその言葉を使うことができた。そしてこの時期において僕が最も印象的だった弟の言動は、弟が「十足す一はどうして十一なのか」という質問を僕にした時のことだ。この質問が僕にはとても懐かしかった。弟が小学校1年生になった時だったと思う。弟は一足す一がなぜ二になるのかということを知りたがった。大抵の大人は「そういうものだ」という説明というか押し付けに終始したが、僕はまず一という概念を教えた。物事の存在の概念である。そして次に、二という概念を教えた。孤独ではないという概念である。そうすることで弟はなんとなく一足す一は二ということを理解した。またあそこからやり直すのかと考えると気が遠くなるような気がしたが、あれから20年近くが17年が経っても弟は何も変わっていないのだということが、とても愛おしくもあった。

それから弟はかなり意欲的にリハビリや言語の再習得に取り組んだ。特に運動機能のリハビリはかなり早く効果を発揮して、歩いたり座ったりという体の運動機能を少しずつだが着実に取り戻した。そして知識や計算機能のテストが行われ、その結果には弟もかなりショックを受けていた様子だったが、けれども僕たちの認識ではこれらのテストはただ単に現在の立ち位置を知るためのものなので、「ああ、そうか」という感想しか持たなかった。実際、本の音読を繰り返しながら弟の言語機能はどんどん回復したし、算数や数学も、かつての受験勉強の時に使った教材が役に立って、目覚ましい回復を見せた。退院して家に帰ることができた週の日曜日、僕ら家族と弟の彼女とですき焼きを食べた。

けれども弟はそれから、今度は社会の壁と戦うことになった。僕も弟も、働き者の両親をみて育ったし、母は神社でお参りをする時にはいつも「この子たちが人の役に立てますように」と祈ってくれたから、楽をして生きようなどという考え方は持ち合わせていない。退院してから一年がたった時、弟は再就職活動に取り掛かった。言葉は少しだけもたつくが、いたって普通に会話をできるようになっていた。かつて陸上競技をしていた頃の靴を履き、ランニングもするようになった。しかし日本の社会は残酷である。一度レールから外れた者を、日本の社会は簡単に許してはくれない。様々な会社の面接を受けるが、弟は数十社の面接に落ち続けた。ある日、弟が声を枯らして帰ってきたことがあった。聞くと、大学の友達と一緒に空港に行ってきたとのことだった。空港といっても空港の建物の中ではなく、空港の滑走路の近くに車を止めて、散々に怒鳴ってきたそうである。