わずらわしい季節が来たと思った。街路樹からはなにかわけのわからないものがしきりに降ってくるし、ポプラだかなにかの綿毛が街中に飛んでいる。わずらわしい。いつもより陽気にも見えるオレンジ色のバスには、陽の光につられてか観光客が増える。持て余した自由を見せびらかして歩く人間が増えるのだ。わずらわしい。けれどわずらわしいことばかりではない。小さな広場の真ん中の銅像は陽の光を浴びて、偉そうに、すべての人間を見下ろしているように見えるからである。ウッラは光に濡れる広場の銅像をチラリとみて、またすぐに視線を歩道に戻した。次の角を曲がれば店に着く。また今日も、労働の時間が始まる。そんな想いを抱いて歩を進めたものの、店の前に立ってみると、鉄格子のようなシャッターが閉まったままである。いつも店を開けるソンが遅れているのかもしれない。それにしても、他の従業員の姿も付近には見当たらないのはどういうことだろう。ウッラは格子越しに、ガラス張りの店の中をのぞいてみた。誰も居ない。ふと、おかしな感覚が沸いてきた。奇妙な感覚である。思えば、20年近くほぼ毎日ここに通っているが、人のいない店内を見るのは、初めてのことだ。自分が店に来るころはいつも、数人の従業員がすでに仕事を始めているはずなのに。いったい、どうしたものか。
不意に、ガラスに映った自分の姿が目に入った。背が低く、多くのバングラディッシュ人がそうであるように、褐色の肌を持った自分がいる。もうずいぶん、鏡で自分をまじまじと見ることなどしていない。したところでなにがどうなるわけでもない。ジャンパーのファスナーを少し、上げてみた。少しずり落ちたズボンを、ちょっとだけ上げてみた。ニット帽も少し角度を直そうかと手を伸ばしかけたが、やめた。もうずいぶん前から自覚していたことではあるが、こうしてまじまじと自分を見て、老いたなと、思った。そしてこのまま少しずつ、老いてゆくのが自分の人生なのだろう。それ以外の未来など無いはずなのに、ウッラの胸には、嫌なざわつきがある。ガラスの中に映る風景は、自分の後ろに、まだ色濃くなりきらない緑の芽吹きを抱えた街路樹と、上り調子の陽気の、明るい世界が広がっている。あの街路樹、あの木々は歳を重ねても毎年必ず新芽を茂らせ、人はそれを若葉と呼ぶのに、なぜに人間にはそれが出来ないのか。そんなことを考え始めて、慌ててウッラはガラスの前を離れた。わずらわしい。なまじっか時間などあるからこんなことを考えるのだ。遅い。いったいソンはなにをしているのか。それとも自分が店の臨時の休日を知らないでここに来ただけなのか。
ウッラは携帯電話を取り出して、オーナーに電話をした。すると自分でも呆れるような事態が明らかになった。単純にまだ就業時間のかなり前だから、誰も来ないのである。一時間、早く来てしまった。そうとわかると、とたんに昨夜の寝不足による、体と頭の重さをはっきりと感じるようになった。けれど、それだけだろうか。本当に自分は、時計を見間違えたのだろうか。ウッラの脳裏に一瞬、これは老いによりものではないかという不安がよぎった。確かに今朝目が醒めたとき、とっさに寝過ごしたと思い、よく時計を確認せずに家を出たのではあるが。わずらわしい。だいたいなぜ眠れなかったのだ。あいつらだ。あの二人の若者たちが、悪いのだ。ウッラは不眠の元凶となった二人の青年への想いを振り払うように、また街路樹から落ちてきた得体のしれない煩瑣なものを振り払った。
***
イタルが店に入ったとき、ウッラは皿洗いだと説明された。初めましての挨拶をしたとき、愛想の無い無口な人だと思った。まず配属されたのがホールの仕事だったので、ウッラと顔を合わせるのは、洗い物をもって厨房に入ったときに限られたが、挨拶をしてもウッラからはいつも、気の無い返事が返ってくるだけであった。
働き始めてすぐ、イタルはウッラに関する二つの疑問を抱いた。一つ目は、ウッラが賄を食べないことである。仕事の後、従業員全員の食器を並べていたイタルは先輩から、ウッラの食器は要らないと言われた。なぜかと尋ねると、「誘っても一緒に食べないから」という返答だった。二つ目は、ほとんどの従業員が、ウッラのことを、ウッラには分からない言葉で「ジジイ」と呼んでいることである。「それ?ジジイにやらせればいいよ。」という調子である。このことも、先輩に尋ねてみた。なぜ、ウッラだけやや異なる扱いを受けるのか。「彼はまともな仕事が出来ないから」と、先輩は答えた。しかし、やがてイタルの配属がホールから厨房へと変わり、厨房で働き始めるとすぐに、ウッラは料理のことも良く知っていることがわかった。イタルが店のレシピを覚えられずにまごまごしていると、横から覗いていたウッラが、文法やら単語の目茶苦茶なイタリア語で使う物やタイミングを教えてくれたし、混雑してオーダーが重なっているときなどは、ウッラが手を動かしてさっさとやってしまうこともあった。他の従業員もその様子は見ているのに、あえて、ウッラには料理人としての立場を与えない。
あるとき、イタルが仕込み作業でエビに櫛をさしているときのことである。横からイタルの作業を覗いていたウッラがイタルの作業を制し、エビと櫛を手に取った。「こうやるんだ」と二、三個やって見せてくれた。イタルが真似をして一つやってみるが、ウッラはイタルがたったいま作業したエビを奪い取ると櫛を抜き取り、「全くわかっていない。こうじゃない、なぜ手本通りに出来ないんだ」と、かなり強い口調でイタルを叱咤し、もう一度自分でやってみせ、良く見ろと言わんばかりにそれをイタルの顔の近くに運んだ後、容器へと放り込んだ。イタルは他人からこのような態度で接せられることを腹立たしく思ったが、しかしなんとなく、これはウッラの人間性というよりも、彼がこれまでこのように人から接せられてきたのではないかという想像をした。イタルは、作業を進めながらときどき「これでいい?」とウッラに確認を求めた。ウッラは皿を洗いながらエビの仕込みの確認などわずらわしがったが、イタルがエビを見せに行くと、丸い目でジロリと櫛が刺さったエビを眺めて「これでいい」と言うのだった。イタルはウッラに「今日は賄をみんなと一緒に食べますか?」と聞いてみたことがあった。ウッラは残念そうとも困った様子ともとれる表情で、「いや、家で食べるんだ」とだけ言った。
イタルが賄料理の当番を任せられるようになると、イタルは毎回ウッラに確認した。「今日はみんなと一緒に食べますか?」ウッラの返事は毎回同じだったけれども。けれどもウッラは毎回「今日は何をつくるんだ?」と聞いてくる。食べないのになぜ気になるのだろうと思うが、今日はこんなものをつくると説明してみる。するとウッラは喜んで、「お前はよく勉強するからいい」などと冗談とも本気ともつかないことを言う。なぜ、ウッラは店の賄を食べないのだろう。この国の料理が苦手なのかと聞いてみたけれど、どうやらそうでもないらしいのである。
***
イタルは仕事の途中で先輩に呼ばれ、厨房を出てホールの死角となっているデッドスペースに向かった。行くと、先輩から一枚の皿を手渡された。「ちょっと嗅いでみてくれ」と先輩はいう。嗅いでみると、まるで何日も放置した布巾で皿を拭いたかのような匂いが、はっきりと臭った。「あいつはこういう仕事をする」と先輩は言った。イタルは、店に入った直後に先輩から「彼はまともな仕事ができない」と聞かされたことを思い出した。信じたくはないが、いま自分の手にしているこの皿の現実を、どう捉えたらよいのか。他の従業員の間にもこの問題が広がり、何人かの従業員が厨房に入りウッラに詰め寄ってゆくのが見えた。イタルの中には、ウッラをなんとか助けてあげたいという気持ちが沸き起こっていた。それはまるで、自分が子供だった頃、いじめられている友達を助けたいと思ったときのような、その種の感情である。まだ近くにいる先輩に聞いてみた。
「皿を拭く布巾は、お店で洗っているものですか?」
「いや、閉店後にオーナーが取りに来て、オーナーの家で洗っているんだ。」
イタルは、オーナーがどのように布巾を洗っているのかが気になった。ウッラが使うだけで匂いが出るなんて、そんなことがあるわけはない。もっとも、ウッラが毎日布巾を取り換えていればの話なのだが。そんなことを考えていると、先輩が話を続けた。
「しかし本当に、常識は世界では通用しないんだなとつくづく思うよ。清潔という概念が、世界中どこでも等しい基準で存在するわけではないからな。ジジイの祖国はバングラディッシュという国なんだが、俺も少しネットで見て驚いたよ。汚い川だか池だかの水で人間が顔を洗ったりだとか、洗濯をしてるんだよ。でもそのすぐそばで、別の人間が野菜を洗っているんだよ。そういう国で生まれ育ったんだから、ジジイの仕事は仕方ないといえば仕方ないんだけど、その価値観でここで仕事されちゃ困るんだよ。」
イタルは先輩の言葉に頷きつつも、先輩の言葉の中に人種差別的な意識が存在していることを感じていた。
「この仕事向いてないから、他の仕事をするように勧めたことがあるんだよ。でも本人がここに居たいって言うから、仕事を与えているんだけどな。」
厨房からウッラの声が漏れ聞こえてくる。
「この布巾はちゃんと今日、店の引き出しから新しいものに取り換えた。自分はいつも清潔なものを使っている。」
イタルは気になり、厨房を覗いてみた。そこには、三人の従業員と対峙する、小さな体の老いたウッラがいた。彼は子供の様な目をして、訴えていた。ウッラの右手には、匂いの元凶と思われる布巾が握られている。イタルは再び備品が収納してあるホールのデッドスペースに向かい、引き出しを開けて、布巾を手に取り匂いを嗅いでみる。すると微かに、臭った。イタルはすぐさま厨房に戻り、その布巾を示した。
「すみません、これ今引き出しから出したばかりの布巾なんですが、やっぱり臭うんです。オーナー、ちゃんと漂白剤での漬け置きとかしないまま洗っているんじゃないんですか??」
従業員が次々と、いまさっきイタルが引き出しから出したばかりの布巾を手に取り、自らの鼻に押し付けるように匂いを嗅いでいる。
「本当だ、かすかに臭う。」
「そうなんです。これが濡れて少し時間がたつと、匂いが完全復活するんだと思います。」
そこにやってきたのはアイカである。
「ホントだ。ウッラ!良かったじゃん。ウッラのせいじゃなかったんだよ!」
良かったと言われても、ウッラには喜びよりも、命がつながったことを実感するときに感ずるような、あの種の安堵があるだけである。明らかになった事実は次の通りだった。洗い物を回収して家に帰ったオーナーは、つけ置きもせずにすぐに洗濯機を回し、しかもそれが深夜であるから、そのまま朝がきてオーナーが起床するまで、洗われたものは洗濯機の中で放置される、ということらしい。これでは、何もなくても匂いが出て当たり前である。けれども、従業員たちのウッラに対する感情は、なかなか変わらない。
「でもこの匂いのある皿があるのに、良かったというわけにはいかない。なんで匂いを感じないんだ。やっぱり嗅覚が鈍感にできているのか。」
例によって先輩は、ウッラにはわからない言葉で話している。わからないからウッラはそれを、木の葉で鳴る騒音でも聞くように聞くのだが、言葉がわからないまでも、自分が目の前の人々から愛されていないということを実感するには、目の前の人々の表情や態度から感じ取れるもので余りあるものがあった。
***
ウッラは火曜日の夜が、どちらかといえば好きである。アイカが来るからである。アイカは半年ほど前からこの店で給仕のアルバイトをしている女の子である。週三日ほど働きに来る。気さくで、鼻っ柱が強いところは店に居る他の女性従業員と変わらないが、自分を対等に扱ってくれること、親しみを持って話してくれるという点が、他のどの従業員とも異なった。少し間隔の開いた、東洋人にしてはめずらしくクリンとした目で笑いながら、「ウッラ!元気?」と必ず聞いてくる。それに対して自分はそっけなく「元気だ」ということしかできないのだが。アイカの態度にはいつも親しみがある。人との間に壁をつくらないアイカは、ウッラにとってはまるで、人間の林の中に奇跡的に咲いた一個の花の様な存在であった。言い換えれば、ウッラにとって周りの人間など、ただの林に過ぎなかった。黙然として動じないか、もしくは、硬い礫の様な幹で、自分をぶつ存在である。それは即ち、ウッラにとっては世の中とも呼べるものである。
いつものように閉店後の店内では、仕事を終えた従業員たちが賄の食卓を囲んでいる。やはりウッラはこの席におらず、まだ掃除をしている。談笑の最中、なんの前触れもなくアイカが言った。
「わたし、ウッラが妖精に見えるんですけど。」
一瞬その場が固まったように思われたが、すぐに先輩が笑いながら応酬する。
「え、どこが。猿にしか見えないよ。」
「そうだよね、猿というかチンパンジーみたいな動物にしか見えない。」
アイカはこうも言った。
「小さくしてポケットに入れて持ち歩きたい!」
一同が一斉に「えー!?」っと奇異の声をあげた。けれどもイタルは、アイカは上手いことを言うと感心した。そうなのである。ウッラは何故か、可愛い何かの存在に似ている気がしていた。なにかを訴えようとするときの、あの切実な目と小さな体がそんな印象を与えているのかもしれないが、なによりもウッラの朴訥なところが、神秘とまではいかぬまでも、寡黙な魅力を手伝っている気がする。もっともイタルは、それを妖精というファンタジックな方向には想像しなかったけれども、もしファンタジックな妖精のイメージにウッラを当てはめるなら、より寡黙な妖精であるべきだとイタルは思った。
「妖精、というのはわかる気がする。でも羽が生えている妖精じゃなくて、木とか植物の妖精だよね?」
「そうそうそう!木の妖精!そんな目覚まし時計とか欲しいなあ。朝になったらウッラみたいにCosa fai??とか言ってくれるの!誰か作ってくれないかなあ。」
誰もそんなの作らないだろと思いつつ、アイカの明るさにやはりイタルは感心した。そんな話をしているうちに、ウッラが帰り支度を終えて、皆の脇を通り過ぎた。ウッラはちらっと従業員の方を見て、
「お疲れ様でした。」
と言ういつもの流れである。。
「はいお疲れ。」「お疲れ。」などと皆は口々に言う。
「ウッラさん、また明日!」
そう言ったのはイタルである。ウッラはもう一度後ろを振り返り、「明日」とだけ言った。
「また明日」という言葉の響きを、自分は嫌いではないことにウッラは気が付いた。まったく、イタルにしろアイカにしろ、この二人の若者はわずらわしい。いちいち笑顔が多いのだ。余計なことが多いのだ。先日など、いつも通りに皿を洗っていると、急に両の脇腹に軽い刺激が走り、体がピクリと痙攣してしまった。背後の気配に気が付き何事かと振り返ると、イタルが満面の笑みを浮かべて手を振っていた。今のがイタルのいたずらだったのだと知った。本当に、わずらわしい。けれどもどうしてか。そのあとまったく同じことをイタルにやり返してイタルを驚かす自分がいた。あの若造。何かを教えようとすると、他の者の様に自分を邪険にはせずに当たり前のように聞いているし、実行もする。料理も、一日二日で、新しいレシピを覚えて作ってしまう。手際もいい。まったく不思議なやつだ。大人だと思えば子供のようないたずらもする。あいつはことあるごとに自分に確認を求めるし、何かが上手くいった拍子に片手の平を自分に向けてくることがある。思わずハイタッチみたいな真似をしてしまった。それを見てアイカがケラケラ笑っている。この笑いはどうだ。いままで数多く浴びてきた笑いのようなあの不快な感じがしない「笑い」なのだ。世の中には、こんな若者もいるのだと、ウッラは思った。そういえば…。ウッラは若干の息を呑みこんで立ち止った。イタル、あいつはいつだって自分に対して敬語で話す。敬語でないことが今まで一度でもあっただろうか。こんな若者も、世の中にはいるのだな。そう思ったら、なぜだか自然と体の力が抜けて、息が漏れるようなため息が出た。店の方を振り返ってみた。
―――けれども…。
とウッラは思う。だからってそれで何かがどうにか変わるわけでもない。そう、だからこれ以上は、何も考える必要がないのである。ウッラは再び家に向かって歩き始めた。





























