Crascul-Ignission

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平和について

【連載5/7】戦争被害者としての日本人:繰り返された悲劇と日本人の「沈黙」

連載第5回。1900年代、内戦の渦中にあった中国大陸で、日本人の居留民たちは想像を絶する暴力に直面しました。なぜ平和を望んだ日本軍は、彼らを守り切ることができなかったのか。そして、一枚の検死写真が後世にどう歪められて伝わったのか。凄惨な事実を、ありのままに記述します。

軍閥時代:内戦の火種が飛ぶ大陸

そして1900年代になると、あらゆる国の半植民地と化していた中国の人々による不満が爆発するようになる。その象徴的な出来事が、義和団事件である。これは中国国土から日本を含めた外国人の排他運動に他ならなかった。

その後1911年に中国では辛亥革命が起こり中国全土の15省全てが清国からの独立を宣言、これを受けて最後の皇帝溥儀が退位し、清(正式名称:大清国)が終焉した。それは同時に、中国に2000年あまり続いた専制政治の歴史が終焉し、アジア最初の共和政国家の誕生かと思われたが、その後中国は軍閥が各地で割拠する「軍閥時代(1916-1928年)」と呼ばれる内戦状態に突入し、この内戦は名前と形を変えて国共内戦(1927-1949年)と続いていくことになる。そして内戦で争う双方に、どこかしらの国からの支援があり、内戦そのものが意図的に拡大されていった。後年に日本が再び中国と戦った日中戦争において、果たして日本人は本当に中国人とだけ戦ったのかといえば、実はそうではない。

想像を絶する惨殺の記録

さて、日本人が海外に居住地を増やしていくにつれて、日本人の居住地が襲撃される事案も発生するようになった。当然ながら日本人居留地は日本の軍隊の駐留地の近くに作られたが、当時の日本の軍隊は国際法を守り他国の軍隊との交戦を極力避けるように教育が徹底されていた。それは日本の居留地を襲撃しようとする側からすれば日本の隙に他ならなかった。

本当に多くの日本人居留地の襲撃があったと考えられるが、現在資料として確認できるのは以下の事件である。

  • 1920年:尼港事件(ロシア帝国領内/死亡者731人)
  • 1928年:済南事件(中国/死亡者16人)
  • 1937年:通州事件(中国/死亡者225人)

これらの事件は死亡者の人数こそ膨大ではないが、その殺害のされ方がおよそ私たち日本人の想像を遥かに超えている。可能な限りの苦痛と辱めを受けながら、生前も死後においても徹底的に遺体を損壊されている。正直なところ、ここに書くことは気が咎め、気が重い。興味がある読者の方は、前述の個別の事案をインターネットで検索してみてほしい。

済南事件:一枚の検死写真が語る真実

ここには一例として、済南事件における犠牲者の一人のご遺体とその検死中の写真を取り上げようと思う。写真をこの記事に載せるかどうかについても悩んだのだが、やはり外部リンクという形で載せることにした。理由は、この記事のテーマである、「戦争被害者としての日本人」の実態をしっかりと知るためだ。ここに載せる一枚の写真は、国立公文書館のアジア歴史資料センターのデータベースからの引用である。URLもまた国立公文書館のものをそのまま使用している。ご覧になりたい方は下記のリンクをクリックしてご覧いただきたい。

📌 外部資料:済南事件犠牲者の検死の様子 済南事件犠牲者の検死の様子
※以前この写真は国立公文書館アジア歴史資料センターの資料へリンクさせていたが、最近写真が閲覧できなくなったので、本サイトへの直接表示に切り替えた。

写真は”東条きん”さん(当時24歳)である。この写真のご遺体である東条きんさんの検死の報告には次の記述がある。

・全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
・乳房に刺創。
・肋骨折損。
・陰部に木片挿入あり。

そしてこのような、およそ人間の所業とは思われない残忍で苦痛に満ちた殺され方をしたのは彼女だけではない。尋常ならざる傷や遺された遺体は部分的な欠損していることもあり、殺された方々は、本当に酷い殺され方をした。そして殺されなかったにしても、多数の人々が暴行・強姦・住居喪失の被害にあったことを付け加えておく。済南を襲撃したのは中国の南軍の兵士たちである。当時の中国は一つにまとまっていたわけではなく、南軍と北軍に別れて内戦を繰り返していた。そしてこの斉南で、南軍と北軍との戦闘が起こったのである。

当然ながら日本軍は居留民保護のために4月下旬に済南に軍隊を派兵し、日本人居住地に中国人同士の戦いが飛び火しないようにバリケードを築いた。しかしこの時、南軍の総司令だった蒋介石が「治安は中国軍によって確実に確保することを保障するので日本軍は撤去して欲しい」と日本側に要請をした。この要請を鵜呑みにした日本軍は5月2日にバリケードを撤廃し、移動できる民間人は軍と一緒に避難させ、居住地には仕事の事情などで移動ができない民間人やその家族のみが残った。

一説によると麻薬や遊郭の関係者も居住地に残っていたとされる。ともかくも、日本軍が居住地のバリケードを撤去した翌日の5月3日に、済南の日本人居住地は南軍の兵士に襲撃された。襲撃者の中には暴徒も混じっていたという証言もあるが、真相は定かではない。

⚠️ 歴史の改ざんについて それから、ここにはどうしても書かなければならないことがある。前出の写真は、長らく「日本軍が中国人を人体実験する様子」として中国のプロパガンダに利用されてきた。中国の学校の教科書に載ったり、博物館に蝋人形がつくられたりした。しかし実際は、この写真は「中国人によって惨殺された日本人女性の遺体が済南病院で検死されている様子」を撮ったものである。
次回:第6回
「日本軍の規律と『便衣兵』の恐怖」。消極的だった軍が、なぜ戦火に飲み込まれたのか。
🌿 思考をさらに深めるために

【連載6/7】日本はあれほど国際法を遵守し、国際社会の優等生であろうとしたのに、日本の勢いは国際社会から危険視されるようになった。同時に日本国内にも、思い上がった軍国主義思想が膨らんでゆく。日本は、西洋中心の社会からアジアの独立と文化的な多様性を夢見た 満州国 を建国し、アジア独立のシンボルとしようとした。夢は幻か、日本が描いた夢と現実の狭間で翻弄される日本人たち。