2025年4月、イタリア・ミラノ。春の柔らかな日差しの中、3万人規模のデモが街を飲み込みました。平和を願うデモ、休日の子供連れの平和なデモ行進だったはずなのに、それが一瞬にして暴力と怒号の濁流へと変質していく——。その境界線に立ち尽くしたとき、私はある絶望的な真理を突きつけられました。
そこには「正解」も「希望」も存在しませんでした。あるのは、ただ争い、破壊し、衝突することそのものに突き動かされる剥き出しの人間性でした。平和を掲げながらも、暴力的な言葉を使い、救済をテーマにしながらも、破壊と暴力に訴える。それらの行動 of どこに正当性があるのか、私には全く理解することができなかった。ミラノという平和な街で行われた3万人のデモですらこの有様なのです。世界から戦争をなくすことなんて不可能なんだということを痛感し、ひたすら悲しくなりました。
この記事では、ミラノで行われたデモと警官隊との衝突をスケールモデルとして、平和を目的とした集まりが、争いを目的とした集団へと変質する瞬間の記録、そしてその濁流の前で立ち尽くす私たちが直面している「本当の絶望」について綴ります。
- 平和を願う行進が、なぜ「破壊そのもの」を目的とした濁流へ変わるのか。
- ミラノでの衝突で見えた、人間の理性が沈黙する瞬間の記録。
- 戦争という連鎖を断ち切ることの、圧倒的な不可能性。
- 絶望の淵で私たちが再定義すべき「本当の戦い」の在り方。
突きつけられた絶望的な真理
「戦争を止めることは、これほどまでに不可能に近いことなのか」
誰もが口を揃えて「戦争は悪だ」と言う。しかし、人類の歴史を紐解けば、戦火が途絶えた日は一日としてない。このデモを通じて私が突きつけられたのは、戦争とは「良くない」という言葉一つで片付けられるほど単純な現象ではないという事実だ。そこには、数え切れないほどの正義と、癒えることのない痛み、増幅し続ける憎しみ、そして混沌そのものを目的とする者たちの思惑が複雑に絡み合っている。一度動き出した戦争という巨大な川の流れは、個人の意志を超え、誰にも止められない濁流となってすべてを飲み込んでいく。
長く紛争が続く地域では、夫と息子を奪われた母親が、その喪失を嘆きながらも「幼い末っ子が成長したら、必ず仇を討たせるために兵士にする」と語るという。悲しみは癒える間もなく憎悪へと変換され、次の世代へと継承される。この連鎖を断ち切るには、誰かが、どこかで、血を吐くような思いで「やめる」と決断しなければならない。しかし、その決断がいかに困難であるかを、私たち日本人は歴史を通じて知っている。
1942年夏以降、敗色が濃厚となり、国中が焼け野原になってもなお、二発の原子爆弾が投下されるまで日本は立ち止まることができなかった。戦場から遠く離れた場所にいる決断者にとって、「負け」を認めることは、自らの存在理由を否定することに等しいからだ。勝敗という概念が介在する限り、理性は往々にして沈黙する。ミラノの街角で起きた衝突は、まさにこの「停止することの不可能性」を凝縮したスケールモデルのように見えた。
緊迫のミラノ:日常が塗り替えられる時
デモの数週間前、ローマで行われた同様の集会では市民生活に多大な被害と混乱が生じていた。ミラノでのデモ参加予定者は約3万人。その中には暴徒化が懸念されるグループも含まれているという情報から、市当局は数日前から厳戒態勢を敷いた。
デモのルート沿いにあるスーパーマーケットや銀行には警察官が巡回し、業務停止の要請が出された。店舗のショーウィンドウは厚いダンボールやビニールで覆われ、まるで行き場のない嵐を待つかのような重苦しい沈黙が街を支配した。
- パレスチナ人の国外追放反対
- 即時かつ永続的な停戦
- パレスチナ人の虐殺反対
- ガザ地区の再建と人道支援の送付
二つの顔を持つ行進
予定を1時間ほど過ぎた15:30、最初のグループが動き出した。その様子は、一部のメディアがYouTubeでライブ配信していたが、実際の現場の空気は映像以上に層状に分かれていた。
先頭を歩く人々は驚くほど穏やかだった。平和を願う横断幕を掲げ、パレスチナ国旗を肩にかけ、小さな子供の手を引く親たち。ベビーカーを押しながら歩くその姿は、日曜日の散歩と見紛うほどにストレスのない、慈愛に満ちたものだった。そこにあるのは「悲しみを終わらせたい」という切実な祈りであった。
しかし、後続のグループが到着するにつれ、空気の粒子は鋭く、熱く変質していく。ライブ動画の1時間18分20秒あたりに、その象徴的な瞬間が映り込んでいる。平和な行進の裏側で、黒ずくめの男たちがハンマーを手にスーパーマーケットの入り口を破壊しているのだ。
バイアモンティ広場の決壊:衝突という必然
広場に到着した第一陣までは、警察の誘導に従い、演説のあと静かに行進を再開した。しかし、第二陣、第三陣が合流し、群衆が5000人規模に膨れ上がったとき、均衡は崩れた。立ち込める発煙筒の煙。響き渡る怒号。もはやそこには子供や家族連れの姿はなかった。広場に充満したのは、日本の喧嘩祭りが始まる直前のような、あるいは大雨で決壊寸前のダムのような、手が付けられないエネルギーのうねりだった。
- 第一に、この構図が「ヨーロッパ対中東」という巨大な対立構造の縮図となってしまったこと。
- 第二に、集団的興奮状態が個人の理性を消失させ、制御不能な力学として働いたこと。
- 第三に、ミラノの警察を敵に見立てて戦うことで、遠く離れたパレスチナの地で戦えない自分たちの無力感を埋めようとしたのではないかということ。
結びに:本当の「戦い」とは何か
デモが終わったあと、人々の記憶に残ったのは、ベビーカーを押していた母親の姿ではなく、破壊された窓ガラスと、警察と衝突する暴徒の姿だっただろう。皮肉にも「戦争をやめさせる」ための行動が、「争わないことの難しさ」を証明する結果となってしまった。
私たちは、何か大きな運動に参加することで、「何かをした気」になってしまいがちだ。しかし、その想いが純粋であればあるほど、その伝え方には細心の注意を払わなければならない。暴力や興奮に身を任せることは、最も安易で原始的な交渉手段に過ぎない。自分たちの正義を叫ぶために他者を攻撃した瞬間、そのメッセージはどれほど高潔であっても汚されてしまう。
ミラノの広場で流した私の涙は、その難しさを突きつけられた痛みだった。いつの日か、私たちの智慧が、憎しみの濁流を堰き止める堤防となり、争いのない世界へと一歩近づける日が来ることを切に願っている。
1995年3月20日の東京で発生した「地下鉄サリン事件」。
なぜ平和なはずの日本でテロが画策されたのか?
計画に関わった犯人たちの多くは医師や弁護士などの優秀な学力をもつ日本のエリートたちでした。彼らはなぜ道を踏み外したのか?
” あなたは人生の手触りを大切にしていますか? “































