連載第6回。国際社会の信頼を得るために「規律」を重んじた日本軍。しかし、一般人の姿をした兵士「便衣兵」によるゲリラ戦と、終わりのない破壊行為が、彼らを極限のジレンマへと追い込んでいきました。
「東洋の君子国」と呼ばれた日本軍の規律
さて、ここで当時の日本の軍隊の雰囲気について、書いておかねばなるまい。例えば1894年から1895年にかけて発生した日清戦争において、日本軍の規律の正しさは欧米を中心とした国際社会から非常に高い評価を受けた。なぜなら当時の日本軍は現地の民間人に対して略奪をするようなことは皆無で、戦地で食糧を調達しなければならない時は、現地の人々に品物に対する対価を支払っていた。そしてまた、特殊な例だと考えられるが、日本軍が朝鮮半島を北上する際、畑で農作業中の農民に出会ったりすると、その作業を手伝った等の逸話も存在する。これらの事例から、国際社会から日本は「東洋の君子国(徳義と礼儀を重んじる国)」と称えられた。
そして1927年頃においてもこのような雰囲気が変わることはない。前述の通り当時の国際社会における発言力とはすなわち軍事力の強さに起因していたため、軍備を整えはしているものの、実際に軍隊を動かすということに当時の日本はとても消極的だった。ただし、1922年に行われたワシントン軍縮会議において、各国が保有できる戦艦や巡洋艦の数が制限され、けれどもその数は各国が平等ではなく、例えばアメリカとイギリスと日本が保有できる戦艦の数は5:5:3と決められ、日本が制限を受けることになった。加えて日清戦争において獲得した遼東半島を中国に変換することも約束させられた。これらの結果には、中国大陸における日本の力が増していることをアメリカが嫌ったことが影響していると考えられている。
国際社会からのストレスと「便衣兵」
本来ならば朝鮮半島を含む中国大陸の利権は、アメリカとイギリス、ロシア帝国が分割できたはずだった。しかしそこに日本が入ってきて朝鮮を独立させようと試み、けれども当時の朝鮮はいつまでも内乱を終わらせることができず、政治的にイギリスとロシア帝国からの干渉を受けすぎると判断した日本は朝鮮を併合し、インフラの整備や学校教育に力を入れ、朝鮮民族が自立できるための力を持たせようと一生懸命に支援した。そして中国東北部(満州)に対する関与を強め、鉄道を敷設したり、日本人と中国の経済活動を活発にさせて、アメリカやイギリス、ロシア帝国がこれらの地域を植民地にすることが次第に非現実的になってきていた。そのためにアメリカとイギリス、ロシア帝国は、中国大陸における日本の影響力と軍事力を削ぎ落とす必要があった。
しかしこれらの現実は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と、多くの日本人の兵士たちがその命を犠牲にして戦った結果として国際的に正当な手続きを経て獲得した権利と領土を一方的に放棄しなければならないことであり、日本人が次第に国際社会からの不平等な扱いに対するストレスを強めていったことはここに記しておきたい。
ともかくも、当時の日本の雰囲気とは、国際社会において他の帝国と対等の権利と立場を獲得するために軍備は拡大したいが、だからといって軍隊が行動を起こすことには消極的で、外国によって国際問題を解決する方針だった。なぜならば国際社会が望まない行動をとってしまっては、それまで積み上げてきた国際社会からの信頼が一気に崩れてしまうからだ。
しかしそれを日本の”弱味”であると判断したアメリカやイギリス、ロシア帝国は中国に対して排日運動を行わせるように仕向けた。その結果が、度重なる日本人居留地の襲撃と虐殺である。ここで問題となるのは、このような日本人居留地への襲撃と虐殺をしていたのは、中国人の軍隊であることもあったが、暴徒化した市民が行うこともあったということである。軍事的な目線からいえば、軍隊同士の交戦は「戦闘」と呼ばれるが、軍隊が一般人を殺せば「虐殺」と呼ばれる。そしてこの時期の中国人の軍隊には、軍隊の制服を着ていない兵士がかなりの数存在した。当時の日本語ではこれらの兵士を「便衣兵」と呼んだ。つまり一般人の服装をした兵士という意味である。
当時の日本軍も、民間人は殺してはならないけれども、日本人の居留者たちは守り切らなければならないというジレンマを抱えていたに違いない。そして被害は人的なものだけはなく、年間数百件も線路の破砕や商業施設への破壊行為が繰り広げられるようになり、満州鉄道の経営をもすら圧迫するようになった。それでも日本側にできることは、中国政府や行政機関に対しての遺憾の表明と苦情の申し入れをすることだけだった。正直なところ、このような状態になった中国大陸における日本の領土の統治は、至難の業だったに違いない。今のように便利で明確な通信手段もない時代である。
満州国建国と「五族協和」の夢
前述の済南事件は、そんな時代の雰囲気の真っ只中で発生した。1928年(昭和3)5月3日のことである。それでも日本軍は大規模な軍事行動には出なかった。そして、1937年(昭和12)通州事件が発生する。通州事件は済南事件の犠牲者数を遥かに上回る225人が惨殺され、多数の人々が暴行・強姦の被害にあった。この通州事件の犠牲者たちの被害状況もまた、済南事件同様に残酷を極める。殺された人々は何もただ刺されて失血死したのではない。考えうる限り、いやそれ以上の苦痛と辱めを受けながら残酷極まりないやり方で殺されている。おそらくは、現地にいた日本人関係者のストレスや我慢というものは、この事件の惨状に接したことにより吹き飛ぶ寸前のところに達したに違いない。実際、この通州事件の5ヶ月後に満州事変が起きた。そして日本は日中戦争へと踏み切って行くことになる。
満州について補足をしておく。元々は1900年に発生した義和団事件の混乱に乗じてロシア帝国が占領していた地域である。現在の北朝鮮の北側に広がる広大な中国東北部にあたり、日本海を挟んで日本と向かい合っている土地である。ロシア帝国から日本の国土を防衛する観点から戦略的にとても重要な土地であり、同時に石油や石炭などの天然資源が多く存在していたために経済的にも重要な意味を持っていた土地であった。
その後、1904年から始まった日露戦争において日本がかろうじてロシア帝国に勝利し、ロシア帝国との講和条約である「ポーツマス条約」により南満州に関する権益が日本に割譲された。日本が中国を侵略して満州を得たと思っている人も多いかもしれないが、実際は当時の国際社会の正式な手続きを経て日本がロシア帝国から獲得した権益である。その後、日本軍と中国軍の戦闘である満州事変を経て、1932年3月1日に旧大清国の最後の皇帝溥儀を皇帝に据えて、満州国の建国が宣言された。
満州国には「五族協和」と「王道楽土」という2つのスローガンがあった。日本人、漢人、モンゴル人、朝鮮人、それから満州地域に存在した興安省に住む興安民人の5つの民族が協力して暮らせることを願ったのが「五族協和」、そして優れた政治により誰もが平和で楽しく暮らせることを願ったのが「王道楽土」である。そして同時に日本政府が達成しなければならなかった目標は、日本国内で増大していた人口の移住先の確保、ソビエト連邦(旧ロシア帝国)の侵略から日本を守るための戦略基地を作ることであった。
これらの目標は概ね達成され、満洲国建国直後から1945年の敗戦までの14年間に、日本各地から1000を超える数の団体総勢27万人が開拓民として、そして起業家やその従業員、商人や役人などおよそ100万人が満洲・内蒙に移住し、そこで家族を作って生活した。1945年の敗戦時には200万人程度の日本人住民がおり、それを守るために80万人ほどの満州関東軍がいたと推察されている。
「本土空襲とシベリア抑留、そして歴史を語る意味」。私たちは過去から何を学ぶべきか。
【連載7/7】次回、最終回。日本本土空襲から敗戦へ、そして シベリア抑留の悲劇。 改めて、この戦争の歴史とどのように向き合い、歴史から何を私たちは受け取るべきか。この考察は綺麗事では終われない。この歴史と事実と向き合うと、平和とは何で、人間とは何なのかという問いが浮かんでくる。
あなたは人生の手触りを大切にしていますか?
































