僕は高校でも陸上部に入ったが、試合に出ると中学校の大会よりも高校の大会はかなりレベルが上がったように感じられた。僕たちの高校には土が剥き出しのグラウンドもあったが、グラウンドの周りを本番で走る陸上競技場のようなゴム敷きのタータンが囲っていて、陸上競技部はそのタータンの上で練習することができた。本番と同じスパイクで練習をできるという最高の環境に僕は舞い上がっていたが、いざ試合に出てみると、なかなか思うような結果を出せずに悔しい思いをした。そんな高校一年生の秋のある土曜日の午後、陸上部の部員はみんなで都大会の観戦に行ったが、僕は一人で練習場に残り練習をすることにした。短距離を速く走るには四つのことに気をつけなければならない。まずは単純に早く走るためには、大きな歩幅で走れるようになること、そして足の回転数を上げられることである。そして競技としての百メートルを速く走るには、スタートしてから最初の三十メートルまでを低い姿勢で飛び出すこと、中間疾走は段々と体を起こして歩幅と回転数を増して、最後の二十メートルは走り込みの練習量がものをいう体力勝負である。その日の僕は歩幅を広げるための練習をしようと思い、スタート地点から三十メートルの地点から数台のハードルを設置した。当初はラフに立ったままスタートをするつもりでハードルをコース上に並べたが、しかしいざスタート位置につくと、スタートの練習も同時にしたくなってしまい、クラウチングスタートでスタートをすることにした。位置について、自分の中で号砲を鳴らし、低い姿勢で飛び出す。目線は地面を見て、腕と足の力を外側から体の中心に伝えていく。そしていよいよ姿勢を上げ始める、というところまで走ったところで、突然目の前にハードルが現れた。スタートに集中しすぎて自分が置いたハードルの存在をすっかり忘れてしまっていた。反射的に体が右側に跳ね上がり、バランスを崩した僕の体は勢いよく転倒し、何度も地面を転がりながら後頭部を激しくきの根本にぶつけてようやく停止した。少しの間は意識が朦朧としていたが、ようやく周囲を見渡すことができるようになると、激しい右腕の痛みに襲われた。右腕を確認してみると、僕の右腕は手首のあたりがボコボコに変形していた。少し動くだけでも微かな振動が手首に伝わり気が遠くなりそうなほどに痛かったが、歩かなければ保健室に行けないので、ゆっくりと右腕を抱えながら保健室に向かった。保健室について先生に「右腕が脱臼した」と僕は先生に伝えたが、その僕の右腕をみるなり先生はすぐに「骨折してるわよ」と言って職員室に電話をし、車で僕を病院に運んでくれる先生を手配した。病院に着くとすぐに麻酔を打たれて車椅子に乗せられて、僕はそのまま入院することになった。複雑骨折で手術が必要だった。けれども内出血と腫れがひどく、そのままでは手術をすることができないため、針金で手を常時吊るして牽引し、骨を元の位置近くに戻しながら晴れが引くのを待つ必要があった。この過程を終えるにはおよそ二週間くらいが必要だという。その日の夜、両親と弟が病室にやってきた。
後日、担任の島田先生が病室にやってきた。数学が担当で、当時五十歳くらい、パーマをかけたような長髪を持つ痩せ型男性だったが、歩き方も性格もマイペースなのに授業にはきちんと熱が入っていたから、生徒にも人気があるいい先生だった。一緒にフルーツを食べながら、島田先生は僕の弟の話をした。「すごくハッキリした性格の弟さんですね」というので、また何か普通じゃないことがあったんだと思った。先生がいうには、連絡を受けた両親と弟が僕が通う高校に到着して病院に向かおうとしたとき、どういうわけか自転車を使って移動することになったらしい。ただ自転車が一台足りなかった。だから弟は走って自転車の後を追いかけて向かうことにしたらしい。前述の通り弟は陸上競技の中長距離の選手である。自転車を追いかけるというより、自転車と並走しているとき、かなり大掛かりな工事現場にさしかかった。弟は迂回する余裕がないと判断したのか、そのまま工事現場に侵入して走り続けた。当然ながら驚いた現場の作業員の方が「危ないから出ろ」と一喝されたが、それに対して弟は走りながら振り向いて「うるせー!」と返したそうだ。島田先生はその様子を語りながら目をギュッとつむり、それからそっと僕の顔を見た。僕はその時の弟の心配と動揺が手に取るようにわかった。ルールを破ったことはよくないことだが、感情に対してまっすぐに動く、弟はそういう人間なのだ。
それから学年が進んで陸上競技の都大会や記録会などで、支部が異なるため普段は同じ会場で試合をすることがない弟が通う高校とすれ違うことがあった。弟が「僕のお兄ちゃん」と柄にもなく可愛らしい口調でクラスメイトに僕を紹介すると、僕も少し照れてしまった。しかしこんな時間があるということは、それだけ長い時間が経ったということであり、当時は僕らも必死だったけど、ようやく普通の家族や兄弟のようになれたんだと感じた瞬間だった。
高校二年生の時、父方の祖母が亡くなった。長くリウマチと癌を患っていた祖母は、晩年は体の自由が制限される生活をしていた。祖母は病院に入ることはなく、ずっと祖父が看病していた。思えば僕と弟が小さいころからずっと、祖父母の家では祖父が料理をするのが当たり前だった。祖父は本当に頑張って祖母を世話したと思う。祖母もそのことを良くわかっていたから、祖父に対してわがままをいうことは決してなかったように思う。祖父の声が聞こえてくるようだ。もう今晩が最後かもしれないと悟った祖父が父に電話をしたとき、父はやはり仕事で忙しかった。この頃の時期の父は、本当に大変だったと思う。父は上昇志向の強い人で、常に勉強して、キャリアアップを続けていた。けれどもどんな仕事にでも現場はある。それが金融業でもコンサルタントでも、現場はある。顧客と部下と上司の間に挟まれて、能力というよりも胆力や人間力が試されていた時期のように思う。そんな父に祖父は「すぐにこい、今すぐ来い」と怒って伝えたそうだ。ひょっとしたら、それは祖母から父への最後の贈り物だったのかもしれない。少し仕事から離れなさい、パソコンと電話を置いて、少し家に帰ってきなさい、と。僕たち家族は急遽仕事場から帰ってきた父と合流し、新宿から夜行に乗った。夜行に乗る時に父は祖父に電話をしたが、そのとき父は祖母が亡くなったことを聞かされた。僕たちは早朝の新潟に到着し、始発電車の快速に乗り新発田を目指した。新発田駅からこんな早朝に何故かたまたま一台だけ止まっていたタクシーで祖父母の家に向かい、タクシーから降りると、夜空が少しずつ色を帯びてくる時間だった。僕は引き込まれるように空に見入った。車通りの全くない通りのど真ん中に突っ立って、ひたすら空を眺めていた。深く群青色に燃えるような青の色、折り重なる雲の輪郭が青の濃淡でくっきりと重なり、空に海の世界があるようだった。まるでそこを命が泳いでいるかのような、そんな美しさがあった。そしてこの空の海の中を祖母の魂が泳いでいるような気がした。このときは不思議と悲しくはなかった。しかしそれから大勢の人が祖父母の家を訪れて、僕ら兄弟と父は交代で蝋燭の番をして、祖母の体が葬儀場の祭壇に移されて、お通夜が終わったとき、大人たちが御斎の席で食事をしている間に、僕は祖母が一人で残された祭壇のあるホールに戻った。不思議と隣には僕の弟もいた。祖母には僕はとても複雑な気持ちを抱いていた。母や弟との関係のこともあったけれど、感謝していることも、謝りたいこともたくさんあった。けれどそれらの感情は言葉にはならず、なんの衝動も伴わない涙として現れた。隣の弟も、泣いていた。これが命なのだと思った。死は感情ではない、しかし死は、厳かに向き合うものなのだと。その直後、疲れたところに少し酒が入った祖父がたまたま泣いている僕らを目撃し、烈火の如く怒った。「お前は長男だろ、長男がメソメソなくもんじゃない」それは誤解だと思ったが、祖父のあまりの激しさに僕は動揺してしまった。その騒ぎを聞きつけて現れた父は「親父、やめてくれ」と祖父を制して、そのあと僕たちは三度静かに祖母と向き合った。父は静かに祖母の頬に触れ、こんなに冷たくなって、眠っているみたいだねと言った。
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僕は高校三年生の時に大いに悩んで進路を変え、浪人して有名な音楽大学に入った。弟は好きで得意な語学を活かそうと語学で有名な大学に進学した。不甲斐ない話だが僕は弟と同年次の大学生だった。大学二年生の頃、午前中の時間に大学近くの商店街を歩いていたら、高校の親友の田代から電話がかかってきた。「椎名って覚えてる?」というところから始まったと記憶していると思うが、田代の声がいつになく沈んでいる。電話の向こうはまだ夜なのかと思えるような声の調子だった。何か言いにくいことを田代が僕に伝えようとしているのだということはすぐにわかった。
実は僕と田代と弟には共通の友人がいる。そしてこの話は少し複雑である。まず僕と椎名は中学の時の親友である。椎名は勉強が良くできて、ほっぺたがマシュマロのように柔らかくて、明るいが思慮に欠けた行動は絶対にしないいい人間だった。中学校では科学部の部長をしており、この科学部は「顧問が新人のため新入生の陸上部への入部は禁止」という無意味で思慮に欠けた非人道的なルールが宣言されたため陸上部への入部が許されなかった弟が一年間だけ在籍していた部活だった。そして田代と僕は高校からの親友であるが、ある時、試験期間中だったと記憶しているが部活の練習がなかった日に、僕らは別の友達の家に集まっていた。僕以外の二人は幼稚園からの友達らしく、彼らの話題がその頃の話になり、僕は二人の会話を聞いていた。すると椎名という名前がでて、彼が住んでいる地域や特徴が、僕が知っている椎名に酷似していた。我慢できずに「その椎名君の名前は雄太?」と質問すると、「え、怖い怖い、なんで知ってるの?」と逆に二人から聞き返され、年賀状やアルバムの写真を確認して、僕らには共有の椎名という友人がいることが確認された。その椎名が、亡くなった。理由は誰も知らない。そもそも椎名が亡くなったということ自体が、何かの冗談のような気がしたが、僕と弟はスーツに黒いネクタイをして、田代から聞いた葬祭場に向かった。確かに葬祭場の入り口には椎名の名前が書かれていたが、それでもそれがただただ違和感でしかなく、入り口から二階に設けられた斎場に向かいながら、そこいらに飾られた椎名が写った写真が目に入ってきた。それを見ながら、僕は弟と顔を見合わせた。それは嘘でも冗談でもなく、椎名の葬儀に間違いなかった。棺の前に到着すると、僕が良く知っていた椎名の顔があった。「お前何やってんだよ」と心の中で呟きながら、手を合わせた。特に感情的なものは何もなかった。けれどもなんの衝動もなしに、涙が溢れて止まらなくなった。悲惨だった中学時代、僕が気さくに話せる数少ない友達の一人が椎名だった。会場にいた多くの人が椎名の同僚だったのだろう、僕らと同年代の人間が多く、本当に多くの人が椎名の喪失を悼んでいた。それを見たら、椎名はあの頃を変わらず人を元気づけたり人を大切にする人であり続けたんだということがよく理解できた。車で初ドライブ。すみませんでした!相手も笑ってた笑。
大学四年生になると、僕と弟はほとんど会う時間もなくなった。同じ家に住んではいたが、バイトや泊まりがけの勉強合宿やインターンなどで、僕も弟も家によりつく時間が完全に異なった。それぞれが海外を旅して、弟はイギリスへ、僕はイタリアへ、自分が学んできたこととこれからの自分の課題を痛いほど感じて日本に戻った。そして就職活動がひと段落すると、弟は夏から、僕は年明けから、それぞれ就職が決まった会社でインターンをはじめた。僕らは二人とも、早く実力をつけて社会に出て大暴れしたい願望が強かった。





























