Crascul-Ignission

答えのない問いを共に考える、静かな学びの場

エッセイ

夜明け前

ありきたりな言い方かもしれないが、人生は大きな帆船で長い長い旅をしているようである。ある程度は目的地に到着できるが、嵐に遭遇するとどこに連れて行かれるかわからない。時どきとんでもない場所に連れて行かれることもある。けれども人間は、一生懸命に船を漕いで目的地に近づくことも、危険な海域から遠ざかることもできる。しかしそれは、自分でオールを手に取り全力で漕ぐことができる人だけが、それをすることができる。弟は長い努力の末に社会復帰を果たし、会社で部下を持つまでに成長した。そして僕は、日本を出て海外で生活をしている。当初は二年間の計画だったが、気がついたら海外生活は十年を超え、僕の経済的な基盤はすっかりヨーロッパに定着してしまった。だからもう十年以上、僕たち家族が全員揃ったことはない。その間に家族には様々な変化があり、弟は結婚して子供が生まれて、僕とは疎遠になった。今ではメールを送っても返事が返ってこない。両親ですら、弟と連絡を取ることが難しい。きっかけは色々あった様にも思うが、単純に弟は家族から離れたかったのかもしれない。それとも、十年もヨーロッパで生活している僕が原因なのかもしれない。日本を出て五年が経った頃、弟が僕に会いにイタリアにやってきた。一週間一緒に旅をして、楽しい思い出だったように記憶している。最後に弟を空港に見送りに行った時、弟が乗り込んだ飛行機を見ながら、一人で涙が止まらなくなったことを覚えている。弟が無事に日本に帰り着くことを祈り続けた。その後、弟が結婚したあたりから、なんとなく弟の雰囲気が変わっていった。弟はコロナ禍の最中に結婚した。というより、弟たち夫婦が結婚式場を予約した時期にコロナ禍が発生した。世の中では三密を避けることがルールとされ、僕も家族も、誰も結婚式に参列できなかった。だから弟たち夫婦は二人だけで結婚式を挙げて、写真を撮った。その写真は母に送ってもらった。

この時期の僕は、忙しさと責任の重圧で気が狂いそうになっていた。二〇二〇年のこのとき僕がいたのはイタリアのミラノである。三月七日にミラノは世界で初めてロックダウンされ、ミラノに入ることもミラノから出ることも、仕事に出かけることや不要不急の用事で家から出ることも禁止された。食料を買いに行くことは許可されていたが、一つの家族から一人だけ、寒い中スーパーの外で列を作り、熱などの症状が無いことが確認された人だけが順番に数人ずつスーパーに入ることを許可され、買い物をした。パンデミックの様相は日本人のイメージとはかけ離れていた。ミラノの一部の住人たちはベランダで歌を歌ったり酒を飲んだりしながら軟禁生活のような退屈を紛らわせる人もいたが、ミラノから北上したベルガモの街では実に一万六千人以上がコロナにより死亡した。遺体の火葬が間に合わず、多くの遺体が軍用トラックで近隣の街に運ばれて埋葬された。多くの家族が、家族の死に立ち合うこともできず、家族の亡骸に別れを告げることすらできず、およそ文明社会で生きる人間の最後とは思えない人生の締めくくり方をした。この地域に住んでいる人はSNSで心の叫びを顕にし、「SNSにベランダで歌を歌っている様子を投稿しないでくれ」と訴えた。あなたたちはいい、でもここは地獄なんだと。現場の医師や看護師たちの悲鳴も新聞で取り上げられた。顔面にくっきりと防護マスクの跡が残った看護師が疲れ果ててソファーに腰をおろしている姿がとても印象的だった。彼らは数ヶ月という短期間に非常に多くの死を見過ぎてしまった。家族への感染を避けるために家にも帰れない。当然のように毎日働き続けるが、「私たちにも家族はいるの」というのが、彼らの本当の心の叫びだっただろう。この時期に、僕の知り合いのご両親、そして友達が、亡くなった。それでもお通夜も葬儀もできない。挨拶もできない。

そんな状況のなかで僕は仕事に追われていた。僕は仕事のために外出することを許されていたので、会社を守るために、二ヶ月間休日なく無心に働き続けた。交通機関は使わずに歩いて仕事場に向かった。街はゴーストタウンの様だった。世界で三番目に汚いと言われたミラノの空気は澄みわたり、朝でも夜でも、道路上にはゴミが全く落ちておらず、日本の様なその光景が不思議だった。そんな時期に、弟たち夫婦は結婚した。きちんと祝いのメッセージも送れなかったことは、申し訳なく思う。あれから何度もメッセージを送ったし、何度も電話をした。もう一度弟と話をしたいと思ってはいるが、同時に今弟が幸せならそれでいいとも思っている。ただ何か困ったことがあれば、頼って欲しい。弟と僕はものすごく仲が良い兄弟だったが、だからといって同じような思考を持っていたわけではない。だから喧嘩もよくした。今回の音信不通が喧嘩なのか絶縁なのかはよくわからないが、お互いがこの世の中に存在しているだけで、僕にはまだ嬉しいと思える感情が残っている。

良くも悪くも僕たちはずっと同じ場所にはいられない。僕自身、少しずつ人生観も死生観も変化している。でもそれは摩擦を生むためではなく、何かを受け入れるための変化だったように思う。おそらく、弟にも似たような変化が起きているに違いない。けれどもそんなことで、様々な苦難を一緒に乗り越えてきた家族がバラバラになってしまったことに、僕は違和感を覚える。そして今回もきっと、家族がバラバラになった原因は、日本を出て十年以上家に帰らなかった僕にあるのだとも考える。

田んぼの中を走る電車から懐かしい景色を見ながら思う。僕たちは本当に遠いところに来てしまった。僕が見ている風景は故郷の風景だが、もうこの風景の中に僕たちはいない。僕が思い浮かべる原風景の中には祖父母がいて、両親がいて、僕たち兄弟がいる。母は厳しかったが、あそこには家族の愛があった。もうあそこに戻ることはできない。人生はどんどん進んでいく。あらゆる感情を飲み込んで、押し流して。ここには、生きる理由などということを考えることをとっくの昔にやめた僕がいる。そんなことを考えることが出来たのは、両親の愛に守られていたからだ。こうして電車に揺られながら、あの原風景の中に戻っていく自分を思い浮かべる。あの記憶の中の風景へと帰っていく錯覚を交えて、僕は今、あの風景の中に帰っていく。僕が戻りたいのは、あの大雪の夜のあの風景かもしれない。

おわり