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「多様性」という免罪符が社会を壊す。「折り合い」を失った社会はどこへ向かうのか?

旅をして知らない国に行ったとき、今まで見たこともない景色や雰囲気に魂が震え、それまで知らなかった考え方や食べ物に触れ、ショックを受けることがある。それこそが旅をすることの意味であり、楽しみである。なぜなら世界は多様性に満ちているからである。
この記事で触れる「問い」
  • 「多様性」がなぜ、怠惰や無秩序の免罪符に使われているのか
  • ミラノと日本、異なる文化圏で感じた「個の尊重」の履き違え
  • オーケストラに学ぶ、ルール(楽譜)と個性が共鳴する真の姿
  • 私たちが次世代に残すべき「日本という文化」の守り方

多様化、多様性、ダイバーシティ、グローバル化、そんな文言が日本や世界のあちこちで散見されるようになって久しい。しかし最近、「多様化」「多様性」という文言は、「日本の国旗を損壊してもそれは多様化の受け入れだから許される」とか、「移民たちが日本の街角を占拠して宗教パフォーマンスを行っていても多様化の受け入れだから許される」とか、「恋愛も結婚もしない若者が増えているがそれも多様化の時代だから仕方ない」とか、「多様化」という文言が魔法の言葉のように多用されているのが気になって仕方がない。

そもそも多様化・多様性とは何かというと、性別、年齢、国籍、人種、宗教、価値観、性的指向、障害の有無など、さまざまな違いを持つ人々が、互いを尊重し、共存している状態を指すものである。つまりは、異なる者を差別・迫害せずにきちんとリスペクトしましょうというものだ。LGBTへの理解から始まり、国籍や宗教を問わず様々な人材が能力を発揮できる環境をつくれるように、多様化という言葉は使われ始めたはずである。そのこと自体は良いことだと筆者は考える。誰にでも居場所があるべきである。

なぜか「多様性」が進むほど社会が荒廃する現実

けれどもこういう話を始めると、必ずやりすぎる人が出てくる。なぜか古きものを簡単に全否定してしまい、それがいいものなのか悪いものなのかもよくわからないのに、新しい考え方を極端に推し進めようとする人たちである。

彼らの考え方はどこかリベラル(反国家権力・左翼)に似ている。彼らはなぜか、多様性を受け入れるだけではなく、そのマイノリティ(少数派)のために世の中を作り変えようとしている。性的マイノリティ用のトイレの設置や、大量のイスラム系の移民の受け入れ、除夜の鐘の廃止、外国人参政権の付与への賛同、外国人の日本の土地購入、などということがいい例である。多様性という考え方が、何か間違ったメッセージとして世の中に伝わってしまったような気がする。

そしてこの頃では、多様性の意味が更に拡大解釈されはじめ、働き方やモラル、一般常識に至るまでが、「多様性」に侵食されはじめている。ある者は多様性を盾に仕事を完遂せずに退勤し、「多様性」という文言が頑張らなくてもいいという楽行きチケットのように機能している。ある者は多様性を盾に街を汚し、「多様性」という文言が他人に迷惑をかけていもいいという免罪符のように機能している。

運営者の視点
日本でもヨーロッパでも、今の世の中はどこか、あえて他者と異なることを選択した人が、その違いをもって他者に迷惑をかけることが許容されているように思えて、はたまた、まるで周囲がその奇行を受け入れなければならないという同調圧力が生まれているような気もする。

それはなぜかと考えると、「多様化」「多様性」という文言が、自分が持っているモラルや常識を疑わせる効果を発揮しているからだと筆者は考える。この状態を気持ちが悪いと感じるのは、たぶん筆者だけではないだろう。

筆者が自分のモラルに反さずに正直に筆者の考えを書けば、頑張っている人間が馬鹿をみて、怠けている人間が得をする世の中なんて間違っている。街を汚す人間が褒められて、街を守ろうとする人間が罰せられるのは間違っている。

職場に必要なのはマスキュリズムでもフェミニズムでもなく、プロフェッショナリズムのはずである。街中に必要なのは利己主義ではなく街そのものとそこに生きる人々へのリスペクトのはずである。それなのに、そんな当たり前のことを声を大にして言いにくくなってしまったのが、今の世の中の現状である。間違ったことを正しにくい世の中である。大人が若者を育てることを躊躇せねばならない世の中である。

地下鉄で遭遇した、ある絶望的な光景

ここで一つ、個人的なエピソードを紹介したい。本人である筆者は真剣だが、ひょっとしたら笑えるエピソードかもしれないので、笑いたい方はどうぞ笑ってください。

全く持って私ごとだが、筆者には胸毛がある。両親共に新潟出身で、筆者のDNAは100%日本人だが、なぜか筆者には胸毛がある。同じ両親から生まれた弟にはないが、筆者にはある。そんな筆者が日本で生きていくうえでは、胸毛をなんとか隠して生活するしかなかった。日本を出る直前まで勤めていたIT系の会社は服装自由で、上司もTシャツで出社するのがありふれた光景だったが、そんな環境においても筆者だけはカジュアルなスタイルでネクタイを締め続けた。胸元を隠すためである。

しかし現在の筆者はイタリア暮らしである。イタリアでは髭や胸毛などは、それこそありふれた光景である。むしろそれが男らしさの象徴とも言える。そんな生活に慣れきった筆者が2年前の8月に日本に帰った時、麻のシャツを胸元全開で着て夕方の地下鉄銀座線に乗ったときのことである。妻と妻のお母さんと食事をして少しお酒を飲んだ後の、心地よい時間だった。

歪んだ個性の衝突
そこに、20歳くらいと思われる女性2人が巨大なスピーカーに騒音を引っ提げて電車に乗り込んできた。筆者は妻と一緒に座席に座って読書をしていた。しばらくするとその2人が笑い転げているのが聞こえてきた。

「ギャランドゥーってチ○コだけじゃねーのかよ!」

それが筆者の胸毛のことを指していることにすぐに気がついた。その大声での会話の内容が侮辱的であまりにも酷いのでその2人を睨みつけると、

「僕声かけられちゃうよ!」「誰もオメーと話したくなんかねーよ」

なんてマウントを取られる始末。たかだか小娘にジム通いで鍛えた筋肉を使うわけにもいかず、むしろ下手をすれば痴漢の冤罪を着せられかねない。

せめて何か言い返して欲しいと隣の妻をみると口を少し開けて寝息を立てていた。起きてくれと何度か手を突いてみたが、起きるわけもなく、それ以上はする気持ちもなく。成すすべなく、黙って耐えるしかなかった。もはやあのような人間になりきれていない動物のことなどどうでもいいのだが。

これは確かに極端な話である。20代の日本人の全てがそうだとももちろん思わない。けれどもこのエピソードは、ある意味、現在の世の中の縮図のようにも思える。自分の個性(と自認するもの)は他人に押し付けるが、他人の個性は笑う。言った者勝ち、やった者勝ち、そういう事例が、今の日本には溢れている。すごい世の中になってしまったと思う。そこには人間性ではなくただ単に動物の本能があるだけである。

「偽物の多様性」という破壊行為

このままの方向性を維持したまま世の中が先に進むと何が待っているのかを考えると、少し怖くなる。「多様化」「誰一人取り残さない社会」というお題目を唱えながら進んだ先にあるのは、声と態度が大きい者が秩序を破壊しながら我が物顔で街を歩く社会である気がする。これを是とする人々は、ミクロな視点での多様化は推進するが、異なる視点には意図的に目を瞑っている。国や地域の文化や人間らしい生活というものについてである。なぜなら多様化を推進する人々の多くはグローバリストとして国や社会の多様性の破壊と均一化を目標としているように見えるからである。だから筆者は思うのであるが、そんなものは多様性などではない、「偽物の多様性」である。

なぜ国や地域ごとに異なれば文化や風習が存在するのか。例えば日本は最初から日本だったわけではなく何千年もかけて日本は少しずつ日本になり、日本人は段々と日本人になっていったのである。日本独自の取り決めごとには、文化的背景や風習などの、例えば日本の電車の中では静かにし、電話もしてはいけないという日本人の間では互いに了解が取れて世の中に存在している民間のルール、そして法律のように立法化されたルールがある。そしてこれらのルールを守ることで、少なくとも同じ身内同士では互いに争わなくても良いように、折り合いのついた平和な世の中を築くことが出来たのである。この成り立ちは他の国々も同じである。そしてそのルールはその国のスタイルを築きあげ、その上にその国独自の文化が成立していったのである。

しかし今、世の中で進行していることは、この先人たちが築きあげてくれた”折り合い”を無くす行為である。文化などはなくなっていも良いと考えるグローバリストが世の中に多数存在することは承知しているが、この話は文化の存続を議論しているのではない。その国の社会が成立するための土台にある認識や折り合いが、揺らいでいく危険性があるという話である。

ここに、マイノリティのために世の中を作り変えることの危険性がある。筆者は多様性がある世の中には賛成だが、多様性の名のもとに多数派を否定・攻撃してマイノリティに極端に寄り添った社会を目指すことには明確に反対する。社会が成立するための基盤が揺らいでしまえば、もう人々はお互いに折り合いをつけることが出来なくなり、同じ街の中で実にくだらないテーマのために同じ民族同士で争わなければならなくなる。ひょっとしたらそれが、この「偽物の多様性」を推進していつ人々の目的かもしれないが。多様性を重視した社会作りは、ミクロな視点での多様性を確保することはできるのかもしれないが、マクロな視点での多様性の喪失に繋がる。これはすでにイギリスやフランス、ドイツで起きていることである。

よく考えてみてほしい。国という大きな視点から話を切り出すからわかりにくくなるのかもしれないが、みんなが大好きな京都はどのように出来て、どのように維持されてきたのか。京都には外国人も大好きな神社やお寺がたくさんある。しかしこれらの神社やお寺は、日本固有の宗教施設なのである。海外の教会やモスクと同じである。そしてそれらの宗教施設を中心に、様々な店舗や施設、仕事がある。そしてそれらの仕組みや街並みがどうして生まれて、どのように守られてきたのかというと、それはそこに長年住み続けた京都民がいたからである。彼らが京都で暮らし続け、京都の歴史と文化を愛し、京都の街並みや歴史、文化を守って継承してきたのである。では仮に京都の街に多様性の受け入れを促進したとしよう。(そんなことはあってはならないが)今ある神社やお寺を取り壊してそこにモスクや教会を作り、様々な外国の宗教施設や商業施設を作ったとする。(そんなことはできないが)。仮に誰かがそんなことを始めたとしたら、それはもう京都ではなくなる。

冷静に考えてみると、多様性などということは、国をあげて大騒ぎをするほどのことではないのだ。ルールや世の中を作り変える必要などない。世の中の良い面や安定性をかき消してまで邁進する価値がある道では断じてない。むしろルールというより、大切なのは一人一人の心の持ちようだったりするのではないか。

よく多様性という言葉を盾に、社会を乱す自由、国旗を損壊する自由、街の一角を占拠して宗教パフォーマンスをする自由などが語られることがあるが、それが本当に自由な行為であり、多様性を受け入れることなのだろうか?良識ある人間はそんなものを自由とは呼ばないはずである。それは単に「荒廃した社会」である。そのことを理解せずに闇雲に多様性ばかりを強調することは、秩序ある社会の破壊者たることを意味する。

今世の中で起こっていることは、多様性・グローバリゼーションという名のまさしく多様性の排除である。このまま進めば、やがてどこの国に行っても似たような光景が広がり、似たような社会情勢になる。今世の中で起きている社会主義的な流れや多様性を受け入れる社会を進めていくと、やがては本当にそんな世の中になるだろう。そんな世の中で、私たちの家族は幸せに生きられるのだろうか。

平等という名の「多様性の破壊者」

多様化を受け入れるとは、つまりは受け入れるだけでいいのである。大多数が少数に同化する必要はない。ただ差別や偏見の眼差しで相手を見るのではなく、部屋に入ることを許し、一緒に隣に座って飯を食うことを楽しみ、公平な条件で仕事をして相手を讃あう。それで良いではないか。それが筆者が理解する多様化を受け入れる社会である。

ここで少し、”平等”と”公平”について触れなければならない。いつの間にか日本でもヨーロッパでもアメリカですら、世の中には社会主義に傾倒する人々が増えて”平等”が叫ばれることが非常に多くなったが、この”平等”という言葉こそが、多様性の破壊者であると筆者は考える。世の中に平等などはありえない。例えば体の大きい人は人より多い食事が必要である。だから彼は人より多い食費を稼ぐために人より一生懸命に働くだだろう。高級車が好きで、好きな車を買うために一生一生懸命に働いてお金を稼いでようやく欲しかった車を買える人もいるだろう。しかしこれらのことは平等ではない。平等な社会では、人々は同じでなければならない。そんなことに意味はない。大切なのは、”公平な世の中”であるべきである。チャンスは誰にでもあり、頑張ったら頑張っただけの成果を実感できる社会である。持てる人が持てない人よりも多くの税金を払うことには基本的には賛成だが、たくさん頑張った人からはたくさん搾取して、頑張ることをしない人は何も払わずに誰かのおかげで食べることができるご飯を何の感謝もなしに食べて寝て暮らす、そんな世の中は間違っている。それでいて、特権階級は贅沢三昧なのだから本当に目も当てられない。

この話はジェンダー・フリーの議論にも当てはまる。大事なことは平等ではなく公平な世の中をつくることであると筆者は考える。女性が消防士になったり、戦闘機パイロットになることはすごいと思う。そうやって様々な場面で女性が活躍できる世の中になることは良いことだと思う。けれども、そうすると今度は「あらゆることで女性は男性に勝る」などということをいう人が出てくる。そんなことを言い出すから話がおかしくなる。これは女性への差別ではない。一般的に男性は女性よりも重いものを持つことができるし、早く走ることができる。しかしだからといって女性が男性より劣っているわけではない。ただ単に女性と男性は違うのである。

  • !真の多様性の視点女性には、子供を生むという男性が持っていない特殊能力がある。これらは違いであり個性である。
  • !平等の暴力男女を同じ条件で酷使し、本来喜ぶべき妊娠や出産をネガティブなものに変えてしまうこと。

こんなことを続けているから、日本は少子化の問題を解決できないのである。女性が持っている個性、男性が持っている個性など、本来の多様性には全く目を向けずに、”平等”というおかしな価値観から男女が同じ条件で働かなければならない世の中である。本人がそれを望んだならともかく、それが出来なければその人の能力そのものが否定されてしまう世の中のどこに多様性があるのだろうか。

多様性とは、その人にしかできないことを明確にして受け入れることだと思う。女性にしか子供を生むことができないのだから、そのことを多様性として受け入れることはなんでできないのだろうか。なぜみんなが同じように働いて同じような孤独な生活を続けなければならないのだろうか。結婚して子供が生まれて、個性豊かな子供と個性的な家庭で人生を楽しむ、そんな多様性を、なぜ切り捨てる世の中の雰囲気がいつまで経っても変わらないのだろうか。

今世の中で起きていることは、多様性の受け入れなんてものではない。多様性のすり替えと多様性の削除、そしてそれに伴う社会秩序の破壊行為だ。こんなものは全く革新的な考え方ではない、退廃的な物事の考え方に他ならない。

多様性とは、個をもって集団に貢献するための合言葉

イメージして欲しい。オーケストラでも、バンドでも、コーラスでも吹奏楽でもいい。演奏者一人一人には個性がある。それは明確な個性である。同じフレーズを吹いても、音色がなんとなく違う。その人には、その人にしか出せない色がある。独特のリズムの取り方や癖も、好みもある。しかし集団で演奏する時には、楽譜というルールが存在する。皆が楽譜を尊重して演奏するから、鳥肌の経つようなセッションやハーモニーが生まれるのである。ではそこには多様性がないだろうか?あるのだ。それぞれの楽器にはその楽器にしかできない仕事があり、もっと言えば、前述のように例えば20人のヴァイオリニストがいても、それを演奏する人によって音色は異なり、その異なる音色が集まるからあのような暖かく重厚な音になるのである。社会や会社も全く同じなのである。

多様性とは、独りよがりに世の中を破壊して歩き回るための通行手形ではない。多様性とは全くもって「個性をもって社会の破壊者」たることではない。多様性とは、個をもって集団や世の中に貢献するための合言葉であるべきなのだ。そして国名は単に地名ではない。それはそこに生きる命と歴史と文化の総称なのである。それが失われて国名だけが残ったら(或いは国名すら消えたら)、世界を旅をする理由は消えてなくなるだろう。

筆者は悲観してこの記事を書いているのではない。日本には、まだ日本人がいる。誰かが道に捨てたゴミを拾って鞄に入れて、家に持ち帰る子供たちがいる。そんな子供たちの命と美しさ、そしてそんな彼らが生きることになる社会、彼らの未来を守ろうとする大人たちも、まだちゃんと日本にはいるのである。筆者は彼らの存在を心から有難いと、尊いと思う。

結局はこの馬鹿げた間違った多様化の波も、いつかは日本の文化の良さや、日本人らしさの良さの再発見に繋がり、収束するのだと推測している。そして日本の土地は日本人が取り戻し、日本はこれから先もずっと平和で、多くの人が「家族っていいな」「家庭っていいな」「好きな人との子供が欲しい」と思える日本の未来が形作られることを、願っている。そして筆者も、様々な仕事を通じて、その未来の大勢の(日本人全員参加の)担い手の一人になりたいと強く思っている。

美しい人々と、美しい子供達の未来に光が有らんことを祈り、この記事を終わる。
🌿 思考をさらに深めるために

「効率化」「最適化」という指標に追い立てられ、現代の私たちは最短距離で正解に辿り着こうとする。その執着が、皮肉にも私たちが最も大切にすべき 「納得感」や「創造性」を奪っている という本末転倒な事態が起きています。本当に価値のあるものとは何か?すぐに手に入ることなのか、値段が安いことなのか?そことは一線を画し、あえて手間をかけ、余白を楽しみ、自分の意思と手を介在させる「人間らしさの拡張」へと舵を切ること。効率の逆にある、あなただけの「美学」を取り戻すための、新しい価値観を提案します。