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【考察】現代の日本男性が弱くなった理由。社会が求めた「中性化」と「男女平等」の矛盾

この記事の視点
  • 電車内での暴力沙汰と、立ち尽くす日本人男性。その背景にある「男らしさの去勢」を考察します。
  • 「優しくあれ」と「体を張れ」という現代社会の残酷なダブルスタンダード。
  • 効率や正解を超えた、泥臭い「人間らしさ」の中にこそある幸せの定義を再考します。
先日X(旧Twitter)に、日本の電車内で中東もしくは南アジア系と思われる大柄な外国人男性が日本人男性を床に押し倒し、「殺すぞ」と叫びながら殴打している映像が投稿されました。ほとんど満員の電車内での出来事でしたが、2人の女性だけが外国人男性を制止しようとしており、周囲に大勢いた日本人男性は誰も事態に介入しようとはしませんでした。

30秒程度の短い動画だったため、経緯や顛末を知ることはできません。ただこの動画には日本人から多くのコメントが寄せられており、そのほとんどが、日本の男性たちがこの暴力騒動に介入しなかったことを非難するものでした。
SNSに溢れた非難の声
  • 「周囲の男、なさけない」
  • 「周りにいる日本男子、もう少し怒れよ」
  • 「日本男児の恥」
  • 「日和ってんじゃねえ」
基本的には、私も同意見です。満員の電車内での暴力沙汰は放置すべきではなかったと思います。日本の男性が積極的に介入して、事態の収集に努めるべきだったと思います。けれどもこの件について、つまり「男らしさ」というものについて、現代社会が抱える根深い矛盾を感じずにはいられませんでした。

動画に写っている男性たちを見ると、事態を察知しつつも自分が巻き込まれないようにATフィールドを展開する人や、自分は関係ないというように微笑する人が見受けられます。私個人は、同じ男として恥ずかしく思います。でも、この男性たちを非難する人たちに、最低限これだけは言っておきたい。
たぶん批判されるかもしれませんが、ここに書くべきだと思うので、勇気を持って書くことにします。

「男らしさ」を剥ぎ取られてきた20年の軌跡

確かに現代の日本の男性は、精神的にも肉体的にも弱くなりました。弱くなったというより、日本の多くの男性は「中性的」になりました。かつて「男らしさ」と言われた武骨なスタイルは今の世の中ではほとんど受け入れられなくなり、清潔感やファッション、メンタルヘルスへの関心が、男性に対しても社会全体から強く求められる時代になっています。

私自身もつい3年ほど前、ついうっかりイタリアにいるのと同じような着こなしをして東京の地下鉄に乗ったら、見ず知らずの20歳くらいの女性二人組から、開けたYシャツの胸元から見えた胸毛を、こちらが驚くほど嘲笑された経験があります。それくらいに今の日本では、男性が男性らしさを批判され、剥ぎ取られながら生活しているのが事実なのです。

先に触れた動画について、非常に多くの人が「日本人の男性が情けない」とコメントしていますが、日本人の男性が弱くなったのは、男性だけのせいなのでしょうか?私はそれは違うと思います。ここで一つ、大きな矛盾を指摘せねばなりません。
もう20年も前からずっと、私たち男性は「男性らしさ」を否定され続けて生きています。体毛や髭は汚らわしいと言われ、男性でも脱毛やエステに通ったり、化粧をすることが推奨されています。社会に出てからは、一緒に働く女性たちに不快感を与えないように、「女性のメンタルを意識した考え方や言動をするように」と徹底的に教えられます。
2026年の現代では、これらの教育は幼少期から始まっているそうです。男の子らしく喧嘩をしたり子供らしい悪戯をすることは戒められ「自分の弱さを認め、周囲と協力できること」が学校でも推奨されるそうです。テレビ・ドラマや映画でも、「戦うヒーロー」より「仲間と感情を共有し、助け合う男性像」が圧倒的に支持されます。昨今では「男の子だから」とか「女の子だから」という物言いですら、問題視されることがあるそうです。

牙を抜けと命じながら、有事に牙を求める矛盾

代わりに、女性がだいぶ強くなりました。戦争や争いの無い現代の日本社会は、男性たちが腕力を奮って国や女性を守る必要も無くなりました。現代の社会における力の定義は「知性、対話、柔軟性」で表現され、それは女性のポテンシャルとも合致しているからです。

そしてこのことは、「男性は強くなければならない」という社会通念を重荷に感じていた多くの男性たちをその責務から解放することにつながりました。つまり現代の日本社会とは、男性と女性が「しなやかな強さ」を理想に掲げて共闘する社会と言うことができるでしょう。

こうして現代では少しずつ、「男性」とか「女性」という性別の感覚自体が薄まっています。以上を踏まえて、日本の男性がその腕力を失ったことを考えると、それは「男らしさの放棄」というよりも、現代を生き抜くために新しい価値観に従った結果、と言えると私は考えます。

つまり現代において「男らしさ」なんて言葉は、「女らしさ」という言葉を男性が使ったら女性たちから白目で見られるように、公の場ではもう言ってはいけない死語なのだと私は思っていました。今はそういう世の中でしょう。
身勝手なダブルスタンダード
平時には「牙を抜け」「優しくあれ」と去勢し続けておきながら、いざ暴力沙汰という有事が起きた時だけ、突然「男なら体を張って守れ」と、もう世の中では死語であるはずの「男らしさ」という原始的な強さを要求する。これはあまりに身勝手なダブルスタンダードではないでしょうか。拳を使ったこともない、戦い方を教わったこともない男性たちに、いきなり騎士道精神を求めるのは酷というものです。

「平等」という名の詭弁、そして「役割」の再定義

また、「男女平等」という言葉についても、私はある種の詭弁だと思っています。男性と女性は根本的に違います。それなのに、生物学的な差異を無視した「平等」ばかりが先行している。もし本当に平等だと言うのなら、暴力的な犯罪に対しても、重い荷物を持つ時と同じように、女性も男性と同じ熱量で立ち向かうべきでしょう。

でも、そんなのは、何かおかしい。やはり男は男らしく、女は女らしく。お互いに得意なことと不得意なことがあり、違うからこそお互いに尊重できる。その違いこそが魅力であり、お互いに惹かれ合う。「平等」ではなく、役割を分かち合う「公平」な社会こそが、本来あるべき姿なのではないでしょうか。

摩擦の中にこそ、私たちの「生命力」は宿る

現在の日本社会は、性別に関する議論をしようとすると、相互理解よりも「正しさ」の主張が先行し、異なる意見を持つ人が声を上げにくいキャンセルカルチャーのような空気に支配されています。その結果、日常のコミュニケーションが窮屈になり、本音での議論ができなくなることで、表層的な言葉だけが飛び交う社会になりつつあります。

そうして私たちは、自分も他人も誰も傷つく必要のない、平坦な世界に向かっている気がします。一見、それは楽な世界に見えるのかもしれません。でもそれは、誰も守る必要がない世界、何も作る必要がない世界です。誰かと正面から向き合い、ぶつかることを極端に恐れるあまり、私たちは大切な生命力まで失っている気がしてなりません。

本当にそれでいいのですか。本当にそれは、幸せと呼べるのですか。
誰かと過ごすと必ず摩擦が生まれます。大好きな恋人や生涯の伴侶との共同生活においても、摩擦は生じます。苛々することもあるし、喧嘩もするし、自分だけの時間が取れなくてストレスがマックスに到達することもある。でもそれでいいんです。喧嘩をすればいい。口論すればいい。言わなければ伝わりません。伝えたら、自分も相手も一緒に、工夫をしましょう。解決策は必ずあるはずです。
そしてもっともっと、幸せになりましょう。私たちはそのために言葉と、頭と心、そして生きている時間を持って生まれたのですから。その泥臭い「男らしさ」や「人間らしさ」の中にこそ、本当の幸せがあるのではないかと、私は信じています。

批判されるのを承知でこの文章を書きました。今誰かがこういうことを言わなければならないと考えたからです。ひょっとしたらこの文章は誰かを怒らせたかもしれない。でもこの文章を読んでくれた全ての方々へ、読んでくれて、ありがとうございました。
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