Crascul-Ignission

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詩の再発見

山月記(中島敦):抜粋

中島敦の短編小説「山月記」は、1942年に発表されました。これ以前にも学生時代から同人誌などに作品を書いてはいましたが、これは中島敦が職業作家としての第一歩を標したデビュー作にあたります。が、同時に中島敦の晩年の傑作でもあります。中島敦はこの作品が発表された10ヶ月後に、喘息の悪化により33歳の若さで亡くなっています。

山月記は、現代の私たちが読み始めてみると非常に硬苦しいく重厚な文章に圧倒されてしまいまそうになります。けれどもその文章の密度の濃さと博学さ、そしてそのファンタジー的要素は、読む者の心をこの作品の世界に惹きつけます。そしてこの作品のテーマの一つである自我と自己の葛藤は、即ち人生のテーマでもあり、悩める者の心に寄り添ってくれる一つの理解の形がこの作品にはあるように思います。まさしく傑作・名作と呼ばれるに相応しい作品とだと思います。

1942年という大東亜戦争の最中において、このように命の炎を燃やし、魂の叫びを文章に変えた中島敦は、この作品に一体どんな想いを込めたのでしょうか。戦争と関係づけた方がいいのか、それとも全く時代背景などは考えずにこの作品を読んだらいいのか、さまざまな読み方があるのも、この作品の魅力の一つかもしれません。

以下に、中島敦の「山月記」の要約を試みます。

中国の伝奇小説「人虎伝」を題材に、虎に化けてしまった詩人・李徴の悲劇を描いた作品です。主人公の李徴は、若くして科挙(中国の超難関国家試験)に合格するほどの秀才でした。そんな彼の夢は高名な詩人になることでしたが、彼の高すぎる自尊心が邪魔をして詩作にとって大切な、他者と交わりつつ人間性や機微を学ぶことがうまく出来ずに、詩人になる夢に破れ、行方知れずになってしまいました。李徴は人知れず臆病な自尊心と尊大な羞恥心から発狂して、仕事も家族も捨てて虎になってしまったのでした。

李徴の旧友だった袁傪は、仕事のための旅の途中で、人食い虎に襲われかけます。しかし虎は袁傪を見るとはっとして茂みに隠れ、人の声で「あぶないところだった」と何度も呟きます。袁傪はその声に聞き覚えがあり、「お前は李徴ではないか?」と問いかけます。虎は自分が李徴であり、このように虎の姿になった経緯を分析して、袁傪に聞かせます。そして自らの誤ちを悔い、人間であった頃の詩を後世に伝えるよう託して去っていきます。

興味を持たれた方はぜひ、本を手に取ってみてください。ここからは、中島敦の山月記から、一部を抜粋してご紹介します。

*** 以下抜粋 ***

人間であった時、己おれは努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それが殆ほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾て(かつて)の郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔としなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己の珠(たま)に非あらざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによって益々己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡て(すべて)だったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪たまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖(いわ)に上り、空谷に向って吼ほえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処(あそこ)で月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼(おそ)れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。