2025年末から2026年1月にかけて、イランで大規模な反政府運動が発生しました。インフレへの抗議から始まったこの運動はやがて体制批判へと変質し、数千人以上の犠牲者を出したとも言われています。しかしその背景には、イランが近代史において何度も経験してきた「民意が外部から形成される」という構造的な問題があります。この記事では、感情を押し殺し、イランの歴史を冷静に辿りながら、今イランで何が起きているのかを考えます。
① 2025年末〜2026年初のイランで起きたこと
2025年12月28日に、イランの首都テヘランのグランドバザールの商店主たちが「急激なインフレに抗議をするため」に店を閉め、ストライキを始めました。このことをきっかけに、イランの首都テヘランではインフレや政府の経済政策に対する抗議デモが行われるようになりました。しかしこのデモの規模が大きくなると、デモの趣旨が「インフレや政府の経済政策への抗議」から、「政府や政治体制に対する批判」を行う大規模な反政府運動へと変質し、この運動はイラン国内各地へと急速に広がっていきました。
その後イラン政府は国内のインターネットを遮断、情報統制を行い、事態鎮圧のために軍隊を導入しました。そして1月中旬にイラン政府はこれらのデモが鎮静化されたと公式に発表しました。イラン政府の発表ではこのデモによる犠牲者数は3000人とされていますが、犠牲者数を5000人や1万人、2万人とする情報もあり、正確な犠牲者の数を把握することはできません。
冷静に考えれば、トランプ大統領には今回のイランの反政府運動を支援するために米軍を動かすための大義や動機がそもそもなかったでしょう。そもそもベネズエラでの米軍の軍事行動は、公には「ベネズエラを通じて米国内に大量に運ばれる麻薬の輸送ルートを遮断することを目的とした米麻薬取締局の任務支援」として行われており、今回のイランの反政府デモにアメリカが介入することには何の大義名分もないのです。それにベネズエラでの軍事行動について、米国は多くの国から公式に非難されています。
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けれども不思議なことに、様々な国の市民たちの間では、米軍がイランでデモをする民衆を支援することを望むような、ある種の民意が形作られつつありました。これはとても興味深いことで、多くの場面で民意は政治とかけ離れたものになります。それはなぜかと考えながらイランについての情報を集めていると、特にイランにおいては、民意が誰かの意図に基づいて形作られた歴史があることがわかりました。
② イランとはどういう国なのか?
イランは、ペルシャ(アラビア)湾にあるイスラム共和国です。人口は約8,000万人。紀元前550年頃からはペルシャ帝国として繁栄し、現在でも国内にはペルシャ帝国時代の史跡が多く残っています。旧約聖書にもアケメネス朝ペルシャの名前で登場し、バビロニアに連行されて捕虜となったイスラエルの民たち(バビロン捕囚)を解放してイスラエルに帰還させたエピソードが有名です。
経済的には、イランは世界第4位の原油埋蔵量と第2位の天然ガス埋蔵量を誇る資源大国であり、石油・ガス産業が輸出による収益の約82%を占めます。石油・ガス産業の他には自動車、化学製品、鉱業(銅、亜鉛)などの製造業も盛んです。
またイランには伝統的に高い学力を重視する文化があり、中東地域において高い教育水準と理数系・技術分野の優秀な人材を排出する重要な国です。つまりイランは長い歴史と豊富な天然資源、そして堅実な国民性を持つ国であると言うことができます。
さて、イランは中東にある国々のうちの一つですが、アラブ人の国ではなくアーリア人の国です。実際にイラン人はアラブ人とアーリア人を明確に区別して考え、だからイランという国名は、「アーリア人の国」(アーリアン=イラン)という意味だそうです。
インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人は、元々は中央アジアの草原地帯で遊牧生活を営んでいたそうですが、気候変動や人口増加などが原因で、紀元前2000年頃から、より肥沃な土地を求めて様々な方面に移動を開始しました。南に進んだアーリア人たちはやがてガンジス川の流域に住み着き、現在のインドの社会や文化の形成に大きく関わり、そして西側に移動を始めたアーリア人たちはイラン高原に辿り着き現在のイラン人の直接の先祖となりました。一部のアーリア人は更に西を目指しメソポタミア(現在のシリアやイラク)にも到達したそうです。
現在のイランはイスラム教を国教としていますが(シーア派を国教とする世界で唯一の国)、それは西暦651年にイスラム教を信奉するアラブ人によってペルシャ帝国が滅ぼされた後のお話です。古代オリエント世界を統一したほどに強大な勢力を誇ったペルシャ帝国ではゾロアスター教が国教とされていました。現在でもゾロアスター教の本拠地はイラン中部の砂漠都市ヤズドに存在し、ここには聖火を守る拝火神殿や、かつて風葬を行った「沈黙の塔」が現存する世界遺産にも登録された信仰の中心地です。現在でも世界中からゾロアスター教信者が巡礼に訪れるそうです。
西暦651年にイスラム教を信奉するアラブ人によってペルシャ帝国が滅ぼされるとイスラム教が広まり、その後16世紀前半に起こったファサビー朝がイスラム教シーア派を国教として定めて以降、現在のイランの国教もイスラム教のシーア派であり、イランはイスラム教シーア派を国教とする世界で唯一の国です。
③ 近代:列強諸国に翻弄されるイラン
19世紀に入ると、他の中東諸国と同様にイランもまたヨーロッパ諸国の勢力図の中に組み込まれ、利権の争いに巻き込まれていくことになります。当時のイランは王政ガージャール朝の時代でしたが、当時イランで産出された石油のほとんどはイギリスの国策企業であるアングロ・イラニアン石油会社(AIOC:現BP)により独占されており、イラン国内にはほとんど富が残らない状況が続きました。
そのためイギリス体制からの脱却を目標に19世紀後半には兵制改革や近代化、教育機関の設立、金融などの改革を試みますが、その間にも気がつけば鉄道や電信の利権、挙げ句の果てにはタバコの利権までもがイギリスの商社に売却されてしまっており、イラン国内では急激なインフレが発生しました。
当然ながら市民たちは自国の経済や誇り、国民の生活を守ることができない王朝に対して反発し、1905年から11年にかけての「イラン立憲革命」が勃発しました。これは自由で民主的な西洋諸国に倣い憲法を制定し民主的な議会の開催を目的とする革命でしたが、結果的にこの革命は失敗し、イランは再びロシア・イギリスの強い影響下でガージャール朝政府による運営が継続されることになりました。
④ 近代:真の独立を求めたモサッデク
しかし第二次世界大戦後の1951年、イギリス支配からの完全な主権回復と自国の富と経済を活性化させることを政策として掲げたモサッデクが首相に就任しました。イランの完全な主権回復のための運動のシンボルとして石油産業の国有化に取り組み、「石油国有化法」を可決させて石油産業の利権をイギリスから取り戻し、国有化に成功しました。そしてそれを足がかりに様々な外国資本をイランから締め出しにかかりました。
当初イラン国民は熱狂的にモサッデクを支持しましたが、この状況をイギリスをはじめとする当時の列強が放っておくはずがありません。イギリスとアメリカは結託してイラン産の石油を国際市場から締め出し、売れなくしました。
CIAはモサッデクに反対する軍人や活動家、そして貧困層に大量の資金を配り、同時に反政権的な様々なデマを市中に流しました。次第に街中では反政府デモが頻発するようになり、1953年8月15日から19日にかけて発生したクーデターによりモサッデクは逮捕、失脚しました。このCIAによるモサッデク失脚作戦はアジャックス作戦(英: TPAJAX Project)と呼ばれています。
失脚したモサッデクは不公正な裁判により死刑判決を言い渡されましたが執行されることはなく、3年間投獄された後に自宅軟禁となりました。晩年は地域の貧しい農民たちを集め、無料で食事や医療を提供する活動などに力を入れ、1967年に亡くなりました。
現代のイランでモサッデクは外国勢力とも宗教勢力とも距離を置き「真の独立」を目指した指導者として知られ、今も彼を慕う国民は多いそうです。モサッデクを慕うイランの人々は、モサッデクの生涯と「大国の利害の間で翻弄されるイランの現代史」が重なって見ているのかもしれません。
⑤ 近代:再び列強の傀儡国家としての独裁体制
モサッデクを失脚させたクーデターのあと、親米家であるパフラヴィー国王を支持するザーヘディー将軍が首相に就任したことで石油産業の国有化は白紙に戻され、イランで産出される石油の利権はアメリカとイギリス、そしてパフラヴィー国王の三者で分割されることになりました。
しかしこの体制では結局、イランの資源のほとんどが外国に流出しているという構図は何も変わっていません。その後1963年になるとパフラヴィー国王が主導した「白色革命」が発動します。これはイランを近代化・西欧化させることで経済を成長させ、国民の生活を豊かにし、更なる王権の強化を実現させることが目的でした。
米国の支援のもとで、農地改革、労働者の待遇改善、女性の解放と女性への参政権の付与、教育の向上などあらゆる改革を試みましたが、その中で最も注目すべき改革は、石油収入を原資に農業から工業への転換、つまり一次産業から二次産業への転換だったでしょう。このためイランの社会・経済構造に大きな変革が起こりました。一説によると、この方針は日本の急激な経済成長に注目したパフラヴィー国王が日本の手法をなぞったものとも言われています。
当時のイランはバブルの真っ只中にあったといえるでしょう。この頃発生したオイルショックにより石油の価格が急激に上昇し、パフラヴィー国王のもとには大量の利益がなだれ込み、この大量の利益をパフラヴィー国王はイラン経済への投資に使いました。イランの街並みは近代的な街並みへと整備され、製造業やサービス業など、それまでのイランにはなかった様々な職業が生まれていました。
しかしこのように華やかに見えたイランの急激な発展の舞台裏では、近代化にあやかり急激に発展した一握りの資本家や富裕層といったリベラルな人々と保守層や宗教層の人々との間に、貧富の格差の拡大と軋轢が生まれていました。また国民や実体経済の実情やその下地(実際に労働を行う人々の状況)を考慮せずに投資ばかりが先行したために、新しい産業に適応できない失業者が続出、更には好景気によるインフレが庶民の生活を直撃し、富裕層と貧困層の軋轢はより大きなものへとなっていきました。これらの摩擦が後に起こるイスラム革命の下地となったと考えられます。
⑥ イラン・イスラム革命
このような摩擦や庶民のストレスがピークに達した結果、イランの人々は新たなリーダーを望むようになりました。ここで国民が関心を寄せたのが、「白色革命」の随所に潜む独裁的な性質とイラン国王の手法を非難して逮捕・亡命中だったイスラム教シーア派の宗教学者ホメイニーでした。ホメイニーは亡命先のパリからイランの人々に革命を起こすように呼びかけ続けました。
1978年前半からイラン国内で国王に反対するデモが発生するようになり、次第にその規模が拡大しはじめ、9月8日には軍がデモ隊を静止しきれずに発砲、多数の死者を出す事態が発生しました。この事件をきっかけに国民によるデモは更に激しさを増し、そこに宗教勢力や政治的な反体制勢力が加わり、ついに公然と反国王・イスラム国家の樹立が叫ばれるようになりました。
1979年1月16日、身の危険を感じたパフラヴィー国王は国外へ退去、エジプトのカイロに向かいました。その後はモロッコやバハマ、メキシコを転々とし、最終的にアメリカに亡命しました。
同年2月1日にホメイニーが亡命先のパリからイランに帰国すると民衆の革命熱はさらに高まり、ついに4月1日、国民投票に基づきイスラム共和国の樹立が宣言されました。
ここまでの流れをイラン革命と呼びますが、もともと「打倒国王」をスローガンに集った人々の集まりは、国王という共通の敵がいなくなった途端にまとまりを失っていきます。最終的にホメイニーが唱えていた「イスラーム法学者が頂点に君臨する国家体制」が固まり、そこではイスラム法が施行される「イスラム社会」が目指されることになりました。
- 樹立された国家がアメリカ側にもロシア側にも属さずに中立を貫いていること。
- 外国資本を国内から排除し、石油産業の利権を全て自国に取り戻したこと。
- イスラム教の原則に基づいて国家が統治されていること。
しかしながら良いことばかりではなく、例えば1981年6月から1982年3月にかけてイラン政府は反体制派の多数の国民について大虐殺を行い、市民による反政府的な集会が開催された際には革命防衛隊を動員して反政府運動の弾圧や政府が政治犯と判断した者の逮捕・収監・処刑が頻繁に行われています。そして自存自衛のためとはいえ、核開発に着手し、ハマースやヒズボラといった国際的なテロ組織に大量の資金や武器を提供しています。
経済的にも、1980年代から継続的にアメリカをはじめとする国際社会はイランの個人・団体との取引を制限する経済制裁を実施しており、じわりじわりと経済制裁によるインフレが進行しており、国民の生活が圧迫されています。
⑦ 現在のイランと国際社会の関係
現在のイランは特にイスラエルとの関係が険悪です。イラン政府の公式見解では、イスラエルを「聖地エルサレムを奪った敵」と位置付けており、そもそもイランはイスラエルを国家として承認していません。また前述の通りイランはハマスを資金的にも軍事的にも支援しており、これらの組織を介した間接的な戦闘を繰り返しています。
一方のイスラエルは4度にわたる中東戦争に勝ち続けましたが、未だにイスラエスはイランの軍事力に脅威を感じていると考えられています。公には両国が直接戦ったことはないとされていますが、実際にはイスラエルは何度も特殊部隊や諜報部隊によりイランの高官や軍幹部、兵器関連の科学者の暗殺を繰り返しており、それでも不十分だと判断したイスラエルは2025年にアメリカ軍に支援を要請し、核施設への空爆も実施されました。
⑧ まとめ
書いていて、イランを取り巻く状況はまるで、異なるグループが相手を騙し合うゲームをしているような、もしくは、第三次世界大戦を起こさないように気をつけつつ、けれども皆んなが同じ一本の綱の上でそれぞれの面子を保ちつつ相手を突っつき合う綱渡りをしているような、そんな印象を受けます。
イランでは近代史上何度も民衆が誰かに先導されて、ムーブメントが発生し、政権が変えられています。このイランの近代史からは、民意やムーブメントとは、その国を脅かしたり搾取することを目的とした外国が意図的に生成した可能性がいつでもあるのだという実例を見ることができます。けれどもその歴史の中で、真に国と国民を想って国を動かそうとしたモサッデクという政治家がおり、彼は結局作為的なムーブメントにより失脚させられてしまいましたが、1979年のイラン・イスラム革命は、ある意味モサッデクの志を引き継いだ、イランの大地と富をイランの国民に返すための本当の革命だったのではないかなと思います。
2025年の年末から2026年の年明けにかけて発生した大規模な反政府デモが激化してくると、現在アメリカに亡命中のパフラヴィー朝最後の皇太子レザー・パフラヴィー氏が再びイラン国王として担ぎ上げられるのではないかとの憶測が飛び、パフラヴィー氏自身もXを通じて全国的なストライキと街頭抗議を呼びかけたそうですが、そんなことは正気の沙汰とは到底思えません。なぜならイラン国民はかつて、パフラヴィー国王から国の富と名誉と経済を取り戻すために戦い、現在のイランを建国したのですから。イランはもうこれ以上、外国勢力の遊び場であるべきではありません。
民衆はいつでも政治のコマとして扱われ、血を流し、涙を流し、誰かはその青春の全てのエネルギーを傾け、誰かは命を失い、誰かは家族を失います。しかし彼らを政治のコマとして動かす人々は何の痛みも感じずに、快適な部屋で美味しい食事をしながら彼らのゲームの行く末を語り合っているのでしょうか。
私には、イランが元の王政に戻ることが正しいことだとは思えません。けれども今のままのイランが続くことが正しいことかどうか、そもそも外国の諜報機関が活動していないイランがどんな姿をしているのか、私たちは誰も知りません。知っているのは、イラン人だけでしょう。ともすればイラン人ですら、自分たちの国の本当の姿を知らないのかもしれません。
本当に、どうすれば世界から争いや悲しみが消えるのでしょうか。イランも日本も、共に二千数百年の歴史がありながら未だに答えを出すことができずにいることを歯痒く思いつつ、この記事を終えようとしています。
- 2025年末のイランのデモはインフレへの抗議から始まり、大規模な反政府運動へと変質した
- イランは世界第4位の原油埋蔵量を持つ資源大国であり、長い歴史と高い教育水準を持つ
- 近代イランは19世紀以降、イギリス・アメリカの資源利権の争いに翻弄され続けた
- 1953年のCIAによるアジャックス作戦は、民意が外部から操作された典型的な事例である
- 1979年のイスラム革命は「イランの富をイラン人に取り戻す」という側面を持っていた
- 今回のデモにもイスラエルの諜報機関など外部勢力の関与が疑われている
- 民意やムーブメントは、外国が意図的に生成した可能性がいつでもあることを歴史は示している
イランに“借り物”ではない自由を。2026年2月28日のアメリカとイスラエルのイラン空爆により最高指導者ハメネイ師をはじめとする要人が多数殺害されました。一部の人々の間では、かつてイランに存在し、アメリカに亡命したパフラヴィー王(現在のパフラヴィー氏はかつてのイラン国王の息子)のイランへの帰還を要望する声が高まっています。しかし本当にそれでいいのか。これまでのイランの革命の歴史を振り返りつつ、過去の一時期イランの首相を務めた モサッデク の足跡に触れつつ、イランが今何を考えるべきか、Crascul-Ignissionなりの視点を述べていきます。
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