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平和について

【連載7/7】戦争被害者としての日本人:日本本土空襲から敗戦、シベリア抑留の悲劇。平和とは、人間とは何か?

連載最終回。1945年、戦火は日本本土へと及び、民間人を標的とした無差別爆撃が日常となりました。そして敗戦の直前、さらなる悲劇が満州とシベリアで幕を開けます。私たちはこの歴史の断片から、何を受け取り、どう生きるべきなのか。魂の叫びと共に、この連載を締めくくります。

この記事で直視する「終焉の記録」
  • アメリカ軍による本土焦土作戦と民間人の犠牲
  • ソ連侵攻:日ソ不可侵条約の破棄と開拓団の遭難
  • 中絶手術を目的とした「療養所」の悲しい実態
  • シベリア抑留、そして歴史を「思考」する意味

本土焦土作戦:民間人を標的にした爆撃

1944年7月、サイパン島の日本軍守備隊が全滅したことにより、日本が定めていた“日本本土がアメリカ軍の爆撃機の行動圏内に入らないため”の「絶対国防圏」が消失すると、ついに九州や本州などの日本本土がいよいよアメリカ軍の爆撃機の行動範囲内に入ることになった。そしてアメリカ軍による日本本土焦土作戦が始まった。焦土作戦とはつまり、無差別爆撃のことである。アメリカ軍が標的にしたのは軍事施設ではなく、民間人だった。

アメリカ軍による日本焦土作戦の最も有名な被害は1945年3月10日にたった一晩で民間人12万人以上が殺された「東京大空襲」、8月6日の広島への原子爆弾投下(死者14万人以上)、8月9日の長崎への原爆投下(7万3884人)の3つだと思うが、実は東京だけでも敗戦までの間に122回も空襲されている。そして空襲は東京だけでなく日本全国に対して行われており、その正確な回数や被害は誰にもわからない。また爆弾や焼夷弾による爆撃だけでなく、戦闘機の機銃でゲームのように民間人をハンティングした事例も多数報告されている。現在では一般的に、これらの空襲による日本国内での民間人の犠牲者はおよそ40万人から100万人とされている。

💡 記録されない犠牲 実は戦後しばらく経っても、日本は敗戦の混乱から正確な戦争被害の調査ができないでいた。政府の公式発表で軍民合わせて310万人と言われる日中戦争・大東亜戦争における日本人の戦争犠牲者だが、その算出方法や正確な内訳を提示した資料はなかった。ここに故・広田純元立教大学経済学部教授の「太平洋戦争におけるわが国の戦争被害」というレポートを紹介したい。タイトルで検索すると、PDFでダウンロードできる。

満州開拓団の地獄とソ連の裏切り

ここからは満州開拓団の犠牲者たちについて書く。満州とは、前述の通り「五族協和」と「王道楽土」をスローガンに、日本国内で増大していた人口の移住先の確保と、ソビエト連邦の侵略から日本を守るための戦略基地を作ることを目的に、現在の中国北東部に日本が建国した日本の傀儡国家である。

1945年8月9日、日本の長崎に2発目の原子爆弾が投下され、いよいよ日本がアメリカとの戦争に降伏しそうな予測がった日、ソビエト連邦は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。ソ連が勝手に日本に攻め込んできたと思いがちだが、実はこのソ連の行動はずっと前から連合国によって計画されていたものだった。1943年11月のテヘラン会談と1945年2月のヤルタ会談において、当時のアメリカ合衆国大統領ルーズベルトはソ連のスターリンに当時の日本領だった南樺太や千島列島の領有、満洲における権益を約束し、代わりにソ連はドイツ降伏の3か月以内に対日戦に参戦することを約束した。実際、ナチス・ドイツが降伏した5月8日(モスクワ時間5月9日0:43)からちょうど3ヶ月後の8月9日にソ連は日本に宣戦布告し、満州国への侵略を開始した。

ソ連が投入した兵力は約150万人、戦車・自走砲約5千両、航空機約5千機と推定され、これらの人員・機材・食料などの輸送は5月頃から段階的に実施されたとされる。日本はシベリア鉄道の往来と国境でのソ連軍の活動を常時監視しており、ソ連が満州に進軍する兆候は察知していた。しかしその時期がいつになるかについては判断がつかなかった。

一方の満州関東軍は本来ならば総兵力約90万人、戦車約400両と航空機約2,000機のはずだったが、大東亜戦争の戦況悪化に伴い多くの部隊や機材を太平洋地域の戦場へと送り出していたため、ソ連軍襲来時の戦力は66万人程度に低下した状態だった。この兵力差で包囲戦を展開してくるソ連に対し満州関東軍は数日で壊滅し、満州はあっという間にソ連に占領された。

女性たちの筆舌に尽くしがたい悲劇

ソ連兵から逃れるために多くの開拓団が満州からの避難を試みたが、男性たちの多くは義勇団として開拓団を守るために戦闘に参加をしており、避難民の大多数は女性や子供だった。その多くは途中でソ連兵に追いつかれたか、モンゴル兵もしくは中国人により補足され虐殺、略奪、強姦された。その被害の規模と状況は筆舌につくしがたいが、その被害の大きさから、多数の開拓団の遭難が報告され、資料にまとめられている。興味がある方は、まずは「北満三大悲劇」と呼ばれる葛根廟事件、麻山事件、佐渡開拓団跡事件から調べていただきたい。

また虐殺を免れた一部の開拓団はソ連兵の捕虜となり施設に収容され、いつ殺されるかわからない恐怖の中で毎日大勢の女性たちがソ連兵の夜の相手をさせられた。また一部の開拓団は中国人暴徒からの保護をソ連軍に依頼し、その見返りとして日本人の女性たちによるソ連兵への性接待が要求され、多くの女性が犠牲になった。更には中国人暴徒から避難民を守るために、若い女性たちを中国人と無理やり結婚させて保護を頼んだ開拓団もあったという。これらのことから、多くの中国残留孤児や残留夫人(中国人と結婚した女性)が生まれた。誰もが命を繋ぐために必死だったのだと思う。そして運よくソ連兵や中国人の暴徒に捕まらずに逃げることができた開拓団も、長い長い逃避行の中で飢えと病気に襲われ、多くの人が亡くなったという。

これら一連のソ連の満州侵略により、少なくとも民間人9万7500人、日本人義勇団7万8500人が殺され、およそ5万5000人の日本人兵士が戦死したと言われている。合計でおよそ24万5000人である。この数字を別の言い方で説明すると、満州には1945年8月までに、軍民合わせておよそ155万から200万人の日本人が存在したとされているが、そのうち無事に日本に帰ってくることができたと考えられているのが約127万人である。

「療養所」と望まない妊娠

あと少しだけ、この満州からの避難者たちの話を続けなければならない。非常にたくさんの女性たちがソ連兵や中国人からの強姦の被害にあったことは前述の通りだが、女性にとって強姦はその場の行為で終わりではない。強姦の末に殺されたり自ら命を絶った女性たちも大勢いたが、非常にたくさんの女性が望まない妊娠をさせられた。ありとあらゆる困難を乗り越えた果てにようやく日本に戻る船に乗り込むことが出来た人の中には、ソ連兵の子どもを身ごもったままでは親や夫に合わせる顔がないと、海に身を投げた女性もいたそうだ。

当時の厚生省は各地の国立病院などに対して「引揚婦女子医療救護実施要領」という文書を共有していた。これは海外から引き上げてくる日本人女性をどのように救済するかを記したマニュアルである。まず満州や朝鮮半島から日本に戻ってきた女性たちが日本に到着すると、上陸時に妊娠検査と性病検査が行われ、そこで妊娠や性病が発覚した人については、「療養所」と呼ばれた施設に隔離されて中絶手術や治療が行われた。

⚠️ 二日市療養所等の実態 これらの処置は、日本国内への性病のまん延や“異民族の血”の流入を水際で防ぐ目的だったとも、そもそも望まない妊娠を強いられた女性たちを助けることが目的だったとも言われている。「療養所」で中絶手術に関わった人の証言によると、取り出された胎児は「瞳や髪の毛の色が明らかに日本人とは違っていた」そうだ。中絶手術を目的とした「療養所」は、主に満州や朝鮮半島から日本に引き上げてくる人々の船が到着する4つの港の近くに設置された。「福岡療養所」「佐賀療養所」「二日市療養所」「国対舞鶴療養所」である。物資不足のため、中絶手術は麻酔なしで行われていたという。

シベリア抑留:終わらない使役

さて、最後に書く戦争犠牲者の記録は、ソ連によるシベリア抑留である。日本がポツダム宣言を受け入れてアメリカ合衆国に無条件降伏する直前にソ連が満州に進行したことは前述の通りだが、日本が連合国に無条件降伏した時点でソ連が占領していた地域に残存していた日本軍は8月末までの間にソ連軍によって武装解除され、捕虜になった。そしてこれらの捕虜や該当地域にいてソ連軍に捕獲された日本人男性の多くが、ソ連によって抑留され、強制労働に従事させられた。日本が受諾したポツダム宣言には捕虜となった日本兵がそれぞれの家庭に帰る権利が明記されていたが、ソ連はそのことを無視して日本人捕虜を労働資本として使役した。

抑留された日本人たちは、まずは満洲の産業施設にあった工作機械を撤去してソ連に搬出する労働に使役され、その後でソ連領内に移送された。9月5日から段階を経てまずは関東軍首脳、一般将兵、満洲にいた民間人男性の順にソ連領内のハバロフスクに送られた。そこでソ連は彼らを1000人程の作業大隊に編成し、貨車に詰め込んだ。このとき彼らには行き先は告げられず、けれどもソ連兵たちが「帰れるぞ!」と叫んでいたことから、一部の抑留者たちは本当に日本に帰れると期待をしたが、いざ列車が走り出してみると、列車の進行方向が日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したというエピソードが伝えられている。その後抑留者たちは派遣された地域での鉄道の施設や生活インフラの整備、劇場の建設などあらゆる重労働を課した。

ただここでも、戦争の敗者の側から歴史を検証することは難しく、正確に何人の日本人がシベリアに強制連行されたのかはわからない。厚生労働省による資料によると、旧ソ連地域に抑留された日本人は総数約57万5000人、そのうち過酷な労働環境や飢え、病気などにより約5万5000人が死亡したとされる。実はこの死者の大半が抑留初年目の冬に亡くなっており、日本にはない極寒の環境と粗末な食事や住居、そして精神的な衰弱などの悪条件が重なったためと推測される。そして2年目の冬には待遇がいくらか改善されて、死亡率が大幅に減った。ただし、厚生労働省が公開している資料はロシア連邦政府から提供された記録を基にしており、実際にはもっと多くの日本人が強制連行され、死亡した可能性もある。

一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説もある。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている。また抑留期間は多くの場合は5年程度だったが、中には戦犯認定などにより労働期間が加算されたことにより11年間も抑留された人もいた。正確な死者数の把握についてだが、これまでにソ連側(現ロシア政府)は約4万1000人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡した。しかしながらシベリア抑留による日本人死者の数を巡っては、様々な意見がある。状況をわかりにくくしている理由は、敗戦時の満州関東軍の人員構成の複雑さである。前述の通り、本来の満州関東軍の兵力は分割されて戦況がよろしくなかった太平洋方面の戦場に送られて、かなり減少してしまっていた。そして不足した兵力のいくらかを、満洲在住の日本の民間人を大量に召集することで補った。そのため、1945年8月時点での正確な満州関東軍の人数と名簿がよくわからなくなっているのである。

出所が違う数字として、アメリカ人研究者のウィリアム・ニンモによると「確認済み死亡者25万4000人、推定死亡者9万3000人、事実上約34万人の日本人が死亡」という数字があるが、この数字はシベリア抑留だけに当てられた数字なのか、それともソ連の満州侵略時の戦闘における戦死者と虐殺された女性や子供などの避難民の犠牲者の数なのかは判然としない。個人的には後者の数字ではないかと思う。一方で旧ソ連が提示する数字には幾つかのバリエーションがあり、ロシアから提供された情報をもとに厚生労働省が発表した数字とは異なる数字が存在する。近年の旧ソ連の資料の研究によると、抑留された日本人はおよそ60万人とも61万1000人、死亡者はおよそ6万人とされる。しかしながら、こういった研究を始めるには長い時間がたちすぎていた。冷戦により日本の敗戦から半世紀以上の長い時間、日本のシベリア抑留の犠牲者数を把握するための調査に旧ソ連の協力を得ることができなかった。そのためシベリアに抑留された日本人の実際の人数や犠牲者の全貌は未だに不明である。


以上、日中戦争・大東亜戦争時の戦争被害者としての日本人に焦点を当てた記事を終わる。精神的に読み進めるのが困難な内容だったと思われるが、ここまで読んでいただき、ありがとうございます。ただここに書くことが出来たのは、被害のほんの一部であることをここに強調しておく。興味がある方には「世界戦争犯罪事典」という書籍をお勧めする。これは日本人とドイツ人の作者がそれぞれの国における戦争被害を可能な限りまとめようと苦心した本である。

改めてここに記すが、この記事を書いた目的は日本軍の戦争を美化するためでもないし、日本人を虐殺したり暴行・陵辱した国や民族を糾弾することが目的でもない。ただ戦争というものはそういうものを生むのだということ、そして日本人を戦争の加害者としてのみ見るのではなく、同時に日本人もまた時代や当時の国際社会の被害者であり、他国や他民族からの暴力の被害者だったという単純な事実を、明らかにしたいと思った次第である。

この記事は決して簡単な言葉では締め括れない。犠牲になった全ての国と民族の方々に、哀悼の誠を捧げると共に、私たちはこれらの歴史的事実を決して忘れることなく、今と未来に生かし続けなければならない。けれども今現在、私たちはそれが出来ていない。かつての大日本帝国にとっての朝鮮半島や満州は、現在のロシアにとってのウクライナの立地と戦略的価値に非常に酷似している。日本への外国人労働力の雇入れのリスクも、私たちは100年前に経験済みのはずなのに、何の準備もないままに同じ歴史を繰り返そうとしている。それはなぜかと考えると、私たち人類はまだ歴史を飾りのように利用しているだけだからだ。

誰かを憎んだり、誰かを罵ったり、何かの権利や利益を主張したり、民族主義に囚われて自分たちを華やかに見せようと歴史を利用したり、自らを貶めるために歴史を悲観して考えたり、そんなところからは未来の人類のために何かを学びを得るなどということはないはずなのに。無条件に与えられる整形された情報だけを鵜呑みにしてはいけない。あなたはきっと疑問を持っていたはずだ。「本当なのか?」「信じられない」と。それを考える材料が提供されなかったから、過去において私たちは考えることや調べることをやめてしまった。しかし本当に日本がたどった戦争の歴史と向き合うなら、本当は私たちはもっと謙虚な思いから、歴史上の出来事の本当の理由や流れをあれやこれやと考察しながら、歴史を学び直す必要があると思う。それにはまずは知り、考え、疑問を持ち、調べて、自分なりの答えを見つけることだ。そうでなければ、歴史とは何のために私たち人類の前に横たわり、何のために多くの人々が犠牲となりその命の炎を吹き消されてきたのか、納得がいかないではないか。

これから生まれてくる子供たちや、これからの未来を生きる人々が、世界中の人々と学び合いながら争いのない世の中で幸せに暮らせることを祈り、この記事を終わることにする。

🌿 思考をさらに深めるために

東京大空襲を振り返りつつ、東京の街並みに思いを馳せる。現代の日本に生きる私たちが、 平和の有り難さと尊さ を再認識することの重要性について、想いを綴ることにします。