Crascul-Ignission

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大人の自習

イスラエルとパレスチナ:第二部

〜イスラム教の成立と中世におけるユダヤ人〜


西暦313年、ミラノ勅令により、ローマ帝国がキリスト教を公認し、326年ごろにローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母である聖ヘレナがエルサレムへの巡礼を行い、ゴルゴダの岡やイエスが磔にされた十字架とそれに使われた釘を見つけ他とされ、その地に建てられたのが聖墳墓教会である。ただし、エルサレムは先に述べた2度のユダヤ戦争によって徹底的に破壊され、さらには135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。このため、当時すでに都市の景観や地形が変わっていたことが考えられ、現地キリスト教徒による口伝が主な情報源だったことを考えると、現在ではゴルゴタの正確な位置については様々な意見がある。当時この場所にはヴィーナス神殿が建っていたが、それを取り壊して聖墳墓教会が建てられた。これによりエルサレムはキリスト教の聖地となった。そして市の名前を再びエルサレムに戻すことを許され、ユリアヌス帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。

西暦610年頃に、ムハンマドはメッカ(現サウジアラビアのヒジャーズ地方)で神アッラーフの啓示を受けたと主張し、イスラム教を始めた。当時ムハンマドを信じたのは男女合わせて200人ほどだったが、彼の妻や親友・親戚たちが彼を支えた。630年、一万人の軍を組織できるようになったムハンマドはついにメッカを占領し、カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、そこを聖地とした。

ムハンマドの死後、その後継者の地位はカリフという地位を継ぐ者に引き継がれ、イスラム教は継続された。しかし問題だったのは、その軍隊の維持の仕方であった。イスラム教を守るには軍隊は必須だったが、軍に給与を払うほどの財源はなく、そのため軍隊を維持するには、敵とそこからの略奪品を求めて常に戦い続けるしかなかった。こうして、常に敵を求めるようにイスラム教徒による征服戦争が繰り広げられることになる。しかし、武力だけではなく、恭順や改宗により争うことなく勢力を拡大することも多々あったという。そして西暦638年、エルサレムはアラブ軍に無血開城され、イスラム勢力の統治下におかれた。

イスラム教にとって第一の聖地はムハンマドが生まれた土地であるメッカであり、ここにはカーバを祭るカーバ神殿がある。イスラム教徒が毎日5回行う礼拝は、このメッカの方角に向けて行われる。第二の聖地はムハンマドが信者を率いて家族で移住した土地、メディナである。現在ムハンマドが暮らした家とその墓には、「預言者のモスク(المسجد النبوي al-Masjid an-Nabawī)」と呼ばれる建物が建てられている。そして第三の聖地が、エルサレムである。伝承によると現在「岩のドーム(قبة الصخرة Qubba al-Ṣakhra)」という建物が建っている場所から、ムハンマドは天に上り、神に対面し神の言葉を授かったという。

その後のエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信者たちが共存する状況が許され、宗教的に重要な場所として、さまざまな文化や宗教が交流する場所としての役割を果たしていた。そして7世紀の後半になると、エルサレムの公用語がギリシア語からアラビア語に変わり、住民の大半もアラビア人になった。当時のイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教にも寛大であったため、エルサレムは国際都市として発展した。

この頃のおよそ450年間が、エルサレムにとっては平和の期間だったと言える。次第にイスラム勢力がヨーロッパに進行してくると、次第に政治と宗教が入り乱れるようになる。

西暦1095年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土だったアナトリア半島(現在のトルコ・イスタンブールがある)がイスラム王朝であるセルジューク朝に占領された。この時、当時の東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼した。しかしただ派兵を依頼したのでは援軍は来ない。軍隊を派兵するための大義名分が必要だった。アレクシオスが選んだのは、「異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還」だった。エルサレムに向かいつつ、アナトリア半島もついでに解放して欲しい、というつもりだったのだろう。しかし教皇ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議の終わりに、集まったフランスの騎士たちに「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて「エルサレム奪回活動に参加して欲しい」と呼びかけた。こうして、第一次十字軍遠征が始まった。

西暦1099年に第一次十字軍がエルサレムに到着し、エルサレム攻囲戦が始まった。結果は十字軍の勝利に終わったが、このとき十字軍は多くのイスラム教徒やユダヤ教徒の住民を虐殺した。そして同年西暦1099年に、エルサレム王国を作った。この時からイスラム教徒やユダヤ教徒はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。

12世紀後半にエルサレムは再びイスラム勢力の支配下に入ったが、イスラム教徒たちはキリスト教カトリック達を追放したものの、正教会信者やユダヤ教徒の居住は許可された。

その後のエルサレムは、1517年にオスマン帝国の支配下になるまでの間、数え切れないほどの小さな勢力争いや派遣争いの舞台になった。時にはキリスト教徒同志の権力争い、時にはキリスト教とイスラム教の争いの舞台になった。

そして1517年にオスマン帝国がエルサレムを支配下に入れると、その後400年に渡ってエルサレムには大きな争いのない期間が訪れた。この期間についてもやはりイスラム教徒たちはキリスト教徒やユダヤ教徒のエルサレムへの居住を認め、少しずつユダヤ教徒の住民の数も回復しつつあった。けれども大多数のユダヤ教徒たちは世界中に離散しており、あらゆる差別や迫害に苦しみながらも、その独自性を堅持した。しかし西暦1890年ころになると、ユダヤ教徒たちのイスラエルの地への帰還運動が提唱されるようになり、この運動を「シオニズム」と呼ばれた。シオニズムの名称は、エルサレムにある「シオンの丘」に由来しており、ユダヤ教で重要な場所である。

さて、これまでイスラエルという土地がどのような場所なのか、そしてユダヤ人がどのようイスラエルを築き、失い、他の宗教とどのような関係にあるのかを歴史的に見てきた。ユダヤ人とは聖書の民であり、キリストの磔を望んだ人々である。ローマ帝国によってイスラエルを追われて流浪の民となり、キリスト教がヨーロッパ全域に普及するようになると、宗教的な差別の対象になった。なぜならキリスト教ではキリストの神性と犠牲が重要視されるが、ユダヤ教ではそれらを重要視せず、神の律法を重要視するからである。そしてユダヤ人はキリストの死に関わった人々だからである。

また生活スタイルの面でも、古来の宗教を頑なに堅持するユダヤ教徒の生活には守らなければならない律法が多く、それだけで周囲の者からは異質に思われた。そしてユダヤ人は他宗教との迎合を嫌うために排他的ともみられ、しばしば彼らとその所有物は暴力的な標的にされた。宗教的視点からの反ユダヤ主義は、中世になるとあらゆる場所で拡大するようになった。例えば自然災害や伝染病などが発生すると、それはユダヤ人が「神の怒りをかったからだ」とも言われて、スケープゴートにさせられた。 たとえば14世紀にヨーロッパで数百万人が犠牲になったペストが発生した時には、一部のキリスト教聖職者が「ユダヤ人の神への冒とく的な振る舞いに対する神の天罰だ」と訴え、一部の教区民はそれを信じた。そして次第に、ユダヤ人への暴力が正当化された「ポグロム」というユダヤ人虐殺まで行われるようになった。

中世前期のヨーロッパでは、ユダヤ人は農業、商業、職人などさまざまな職業に従事することができた。カロリング朝(481年から987年にかけて西ヨーロッパの大部分を支配したフゲルマン民族の国の2番目の王朝)ではユダヤ人は聖書の民として保護され、11世紀頃までは国際的な交易の担い手でもあった。しかし中世後半期のレコンキスタ・十字軍の時代になると、「キリストを殺した」ユダヤ人はイスラム教徒と同様に常に迫害され、土地所有の禁止、商業ギルド(組合)から締め出されたために農業や手工業に従事することが困難になり、公職追放等により次第にユダヤ人の活動は制限されるようになった。そこで彼らは質屋、両替商、金の管理人(所有者)、古物商、行商や市場での無店舗販売、大道芸人などで生計を立てざるを得なくなった。

そんな中にあり、エルサレムに平和な時代が続いたオスマン帝国時代に生まれたシオニズム思想とは、かつての自分たちの国を取り戻すという意味合いと、反ユダヤ主義への抵抗運動として、誰からも差別や迫害をされない安息の地を手にいれるという2つの意味があったのではないだろうか。だがそんな希望は、今度は大国のエゴによって踏み乱され、その混乱は2025年現在まで続いている「世界で最も解決することが難しい戦争」の火種となった。

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