最近、学校の給食で「いただきます」を言うことを廃止するように訴える動きがあるそうです。その根拠として語られる「親が給食費を払っているのだから、感謝を強いるのはおかしい」という理屈は、一見すると経済的な契約関係に基づいた合理的な主張に見えるかもしれません。
しかし、この一言を単なる「サービスへの対価」という観点から切り捨てることは、私たちが長年築き上げてきた日本独自の精神文化、さらには「人間が人間であるための境界線」を自ら破壊する行為に等しいのではないでしょうか。
「いただきます」とは、単なる食事前の合図ではありません。それは命の循環、他者の労働、そして自分自身の生に対する深い畏敬の念が込められた、極めて高度な精神的儀式です。この言葉を失うことは、私たちが物質的な豊かさと引き換えに、目に見えない大切な「繋がり」を喪失していく過程の象徴と言えるでしょう。
- 「いただきます」廃止論に潜む消費者至上主義の危うさ
- 筆者の実体験:3年間のお弁当作りから見えた「愛」の正体
- 本能を理性に昇華させる日本独自の「作法」の重要性
- 次世代に継承すべき「謙虚さ」という心の防波堤
【実録】3年間のお弁当が教えてくれた「愛」
感謝とは、理屈で教え込まれるものではなく、誰かの献身を「想像」した時に自然と溢れ出すものです。私自身、大人になり、自分で料理を作るようになって初めて気づかされたことがあります。
私の母は、高校時代の3年間, 毎日欠かさずお弁当を作ってくれました。メニューは毎日異なり、栄養も彩りも考え抜かれていました。不甲斐ないことに当時はそれが当たり前だと思っていましたが、いざ自分が作る立場になると、愕然しました。お弁当作りは本当に大変です。それを3年間毎日作り続けるというのは、すっーーーーーーっっっっっっっっっっっごい大変なことなのでした。
献立を考え、買い出しをし、朝早く起きて調理する。その繰り返しは、単なる「作業」ではなかったことは、食べていた私が一番よく知っています。本当に美味しかった。そこには「喜んでほしい」「元気に育ってほしい」という、母の祈りにも似た膨大なエネルギーが注がれていました。あれは紛れもなく「愛」だった。その大変さに気がついた時、私は母から本当に愛されていたんだと理解しました。
そしてそのことに気がついたら、食事をするときは必ず、心から「いただきます」を言い、しっかりと手を合わせて目をつむるようになりました。今わたしが食べている食事は母が作ってくれたものではありません。けれども、私が言う「いただきます」は、私を産んで育て、毎日お弁当を作ってくれた母の苦労につながっている気がします。
「サービス」と「生命」を履き違える現代の傲慢
「お金を払っているのだから、感謝の必要はない」と断じる考え方は、この「見えない誰かの、すさまじいまでの手間暇」への想像力が欠落していると言わざるを得ません。給食の一皿の向こう側にも、母のお弁当と同じように、生産者や調理員の方々の「誰かを想う労働」が詰まっています。
文化と作法が「人間」を作る
「いただきます」は、単なるマナーを超えた、人間を人間たらしめる「作法」です。動物と人間の違いは、本能的な欲求に対して、いかに「意味」と「型」を付与できるかにあると考えます。
教育現場における「食育」の真価
学校給食において「いただきます」が必要なのは、子供たちが社会に出る前に「謙虚さ」という最強の武器を授けるためです。
- 「親が金を払っている」という主張は、子供に利己的な思考を植え付ける。
- 「おかげさま」の精神を欠いた子供は、金銭で解決できない困難に直面した際に脆い。
- 感謝の心は、世界を肯定的に捉えるためのレンズであり、心の豊かさを守る防波堤となる。
結論:失われてからでは遅い、目に見えない宝物
私たちは今、効率性や合理性という物差しだけで、あまりにも多くの「目に見えない価値」を切り捨てようとしています。「いただきます」の廃止論は、その氷山の一角に過ぎません。
もし、この言葉が教室から消えれば、そこに付随していた「命への畏敬」「他者への想像力」「自己の抑制」という、人間を人間たらしめる重要なパーツが欠落していくことになります。
効率化が加速するほど、仕事の手触りは失われ、心は摩耗していきます。薄利多売の構造に流され、自分が消えてしまいそうな時、必要なのは単なる忍耐ではありません。 自らの意志で「良い仕事」を定義し、何度でも対話を試みる。 システムの歯車ではなく、一人の表現者として正気を保つための「心の筋トレ」を始めましょう。
あなたは人生の手触りを大切にしていますか?
































