Crascul-Ignission

答えのない問いを共に考える、静かな学びの場

大人の自習

イスラエルとパレスチナ:第三部

〜イギリスによる混乱〜

西暦1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスがオスマン帝国の解体を画策して様々な策を弄した。有名なのが以下の3つの協定や宣言である。

・フサイン=マクマホン協定:1915年にイギリスがメッカの太守フサイン・イブン・アリーと結んだ協定。オスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めた。

・サイクス・ピコ協定:1916年にイギリス、フランス、ロシア帝国の間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。

・バルフォア宣言:1917年11月2日にイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。

つまり連合国側のイギリスは敵対する同盟国側(ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア)の一つであるオスマン帝国との戦争に協力することを条件に、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人の独立と建国を承認すると表明し、その一方で、経済的にイギリスに協力することを条件にユダヤ人にも当時オスマン帝国領のパレスチナでの「ユダヤ人居住地」建設への支援を約束し、更には英仏露の3国でオスマン帝国の国土を分割統治する秘密協定を結んだ。

結果としてオスマン帝国を内部分裂させるためのイギリスの戦略は見事に機能し、地球史上最後の帝国は内側から崩壊し、その広大な領土は様々な民族や国によって分割された。分割については何年も時間をかけて、ある時はイギリスが全ての辻褄を合わせるように、そしてある時は国連決議により決定されたが、そもそもが矛盾に満ちたように見える3つの約束と、地域の利権を手にしたいイギリス・フランスのための分割である。矛盾が生じないわけがない。

「フサイン=マクマホン協定」「サイクス・ピコ協定」「バルフォア宣言」の3つの約束は、一見矛盾に満ちたように見えることから、イギリスの三昧舌外交と呼ばれて問題になった。しかしこれらの協定や宣言をよく見てみると、とてもわかりにくいが、必ずしもそんなに矛盾したことを言っているわけでもなかった。フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人国家の範囲にパレスチナは含まれていない。1916年にイギリスの支援のもとでフサイン・イブン・アリーはヒジャーズ王国を建国し、「アラブ人の王」を名乗った。しかしながら同胞であるアラブ人(イスラム教徒)からの支持を得られずに彼の王国は9年で消滅し、フサイン・イブン・アリーはイラクへと逃亡した。しかし彼がつくったヒジャーズ王国から始まったこの地域をめぐる一連の争いは今のサウジアラビア建国へのステップとなったと考えることができる。

そしてバルフォア宣言の原文では「ユダヤ国家」ではなく、あくまで「ユダヤ人居住地」として「national home」と表現されており、民族自決の観点からパレスチナ先住民における権利を確保することが明記されている。しかしながらこのニュアンスは、ユダヤ人には伝わらなかったのである。彼らはユダヤ人の国が建国されると信じてパレスチナに集まった。そして今度こそ自分たちの国や文化・宗教を他者から傷つけられないように、今でもパレスチナと戦い続けている。迷惑なのはパレスチナの住民たちである。突然彼らが大挙してやってきて、イギリスが約束してくれたからここに自分たちの国をつくる、だから出て行けという。そんなことを甘んじて受け入れることができる民族は、この地球上に存在しないのではないか。争いが起きて当然の帰結なのである。

問題なのはサイクス・ピコ協定だった。協定を結んだイギリス・フランス・ロシアについては、シリアのダマスカス付近の線引きが曖昧なこと以外は特に問題や矛盾はないが、問題はこの協定が本来その地域とは何も関係のない大国によって秘密裏に用意・締結され、実際にその地域を居住地としてきた民族や宗教にはなんの配慮もされなかったことだ。そのためイギリス政府はイギリス委任統治領イラク、ヨルダン、パレスチナについて、アラブ人を納得させつつ将来においてもこの地域に影響力を持ち続ける方法を模索していた。

そこで1921年、新たに植民地大臣に任命されたウィンストン・チャーチルやイギリスにおける中東の専門家らがエジプトのカイロに集められ、秘密会議が行われた。まずイラクやトランスヨルダンについては、フサイン・イブン・アリーの次男であるアブドゥラー・ビン・アル=フサインがヨルダンを統治し、その弟のファイサルがイラク王国の王となることが決定した。フサイン・マクマホン協定を結んだフサインの息子たちに名目的な王という指導権を与える事で、イギリスがアラブ人に対して約束した文言そのものではないにせよ、その精神は達成されたと考えられた。そして彼らは引き続きイギリスから「指導」と「財政支援」を受ける事とされた。加えてレバノンとシリアは引き続きフランスの支配下に置かれ、イギリスはパレスチナの委任統治を維持、そこにユダヤ人居住地を作るための支援を継続することが再確認された。

だが実はこの時に決定された事柄が、現在のイラクやシリア、クルド人問題などの問題の発端になっている。なぜなら彼らが優遇することを決めたイスラム教の宗派スンニ派は実はイスラム教の少数派であり、少数派のスンニ派が多数派のシーア派を支配するというおかしな構図が生まれた。そしてこの時に決められた国境線は、実際の住民の分布とは異なる単なる地図上の線引きにより行われたため、民族や住民たちは突然住むところを追われたり、失ったりした。最も深刻な問題はクルド人についてだろう。オスマン帝国時代のクルド人居住地域だったクルド州がトルコ、イラク、シリア、イランに分割されてしまい、それぞれの国においてクルド人は少数派になってしまった。そのために各国においてクルド人に対する迫害や差別が生まれた。

ではなぜイギリスやフランス、ロシアは中東地域が欲しかったのか。石油である。第一次世界大戦は戦車や飛行機などの新しい兵器が登場し、戦争の規模や仕方が大きく変わった。それらの兵器や兵器開発・経済発展に必要なのは石油であり、その石油埋蔵地域として中東は極めて大切だった。まずイギリスはイギリス国営企業の「アングロ・イラン石油会社」(AIOC)を設立し、イランの石油開発事業を進めた。そしてイラクなどイギリスの委任統治領の石油開発事業は、イギリスをはじめ国際石油メジャーの共同出資による「イラク石油会社」(IPC)を設立して強烈に推し進めた。原油は2本のパイプラインを通ってイギリス・フランスが統治する地中海沿岸の精油所に送られて精油され、パレスチナはヨーロッパへ向かう石油タンカーの重要な発着場となった。

このようにイギリス・フランス統治領の中で石油生産・輸送を完結させるシステムを築き、また産油地域である中東全域を経済・軍事両面において支配する体制を築いたイギリスは莫大な利益を手にした。そしてシオニズムの高まりとイギリス政府がユダヤ人にした約束(バルフォア宣言)もあり、パレスチナに帰還するユダヤ人の数が急速に拡大した。課題となったのは、彼らユダヤ人にどのように合法的に土地を与えるのかということだった。そこでイギリス政府は、まずパレスチナ人たちに高い税金を貸した。必然的に野菜や果物の値段が上がり、意図的にインフレを起こさせた後で、今度は野菜や果物の輸出を禁止し、一方で安価な外国産の野菜や果物をパレスチナに輸入し始めた。当然パレスチナ人たちは経済的に追い詰められ、税金を払うこともできなくなった。そして彼らの土地を、とても安い値段で売るしかなくなった。こうしてユダヤ人たちは合法的にパレスチナの土地を得ることができた。そのためこのユダヤ人とアラブ人の感情的な対立は深まるばかりだった。それもそのはずで、パレスチナの地へのユダヤ人の帰還は、この時すでにこの土地に住み着いていたパレスチナ住民たちの生活環境への侵入に他ならなかった。なぜならユダヤ人のパレスチナへの帰還は、パレスチナ人が求めたことではなく、パレスチナ人に相談することなくイギリス政府が勝手に決めたことだったからである。かつてオスマン帝国が行ったように、たとえばエルサレムを異なる民族や宗教の交差点と考えて民族や宗教の共存を図ることと、そこに彼らの国もしくは居住区がつくられることには大きな違いがある。次第にユダヤ人とパレスチナ住民は争いを起こすようになり、少しずつ、小さな争いが大きな争いになりつつあった。

イギリス政府はエルサレムの近代化には力を注ぎ、1925年にはヘブライ大学も開学したが、他の地域での統治方法は、実質的には植民地となんら変わりはなかった。民族自決の考え方からはほど遠く、そこに住む人々の文化や宗教を完全に無視した数々の政策や税制にアラブ人たちは苦しめられ、彼らが長年に渡り守ってきた土地は少しずつ切り取られるようにユダヤ人移民の手に渡りつつあった。このようなストレスがピークに達し、1937年にはアラブ大反乱が勃発し、それは次第に激化した。これは「パレスチナ独立戦争」とも呼ばれる。パレスチナのハイファ港と産油地を結ぶ石油パイプラインが爆破されることもしばしばあった。

イギリス政府は初め、これを軍事力で鎮圧しようとしたが、それまで抑圧されていたアラブの人々の怒りは軍事力では抑えることができなかった。アラブ人・イギリス人双方に多数の死傷者を出しながら、イギリス政府は1937年に国際連盟に対し「パレスチナ委任統治は困難になった」との「ピール報告」(The Peel Commission Report)を提出した。実はこの報告のなかに、パレスチナをアラブ・ユダヤ両地区に分割して統治する案が登場するが、当然ながらこの案はアラブ人側が拒絶した。この案が現実味を帯びてくるのはもう少し先の話である。

1939年、ドイツやイタリアではファシズムが勢いを増して、大きな戦争の気配が迫っていた頃、イギリスは「パレスチナの分割案はアラブ人が到底受け入れない」と考え、イギリスは新たな認識を打ち出した。これは「マクドナルド白書」と呼ばれるもので、イギリスのユダヤ政策の転換が記されている。重要な趣旨は以下の2点である。

①「イギリスはユダヤ人国家を想定しておらずバルフォア宣言は履行が完了したと考える。
②「新規ユダヤ人のパレスチナ入りを禁止し、かつ10年以内にアラブ人とユダヤ人の混合国家パレスチナを建国する」

事実、前述の通りにバルフォア宣言には「ユダヤ国家」とは書かれておらず「ユダヤ人居住地:national home」と記述されている。だからと言って、これはユダヤ人にしてみればイギリスの手のひら返しのようなものだった。当然ながらユダヤ国家の建国を目的としてきたユダヤ人シオニストたちはこの「マクドナルド白書」に反発した。

そして第二次世界大戦が勃発した。ドイツによるホロコースト(ドイツによるユダヤ人の人権剥奪と輸送・大量虐殺)が行われ、実に600万人に登るユダヤ人が虐殺された。

1945年に第二次世界大戦が収束しても、パレスチナのユダヤ人とアラブ人の争いに終わりはなかった。事態の収集を諦めたイギリスは国際連合に問題の解決を委ね、1947年11月29日、国際連合総会において「パレスチナ分割決議(国際連合総会決議181)」が賛成多数で可決された。これはパレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域に分割するものであった。国連での議論は当然、地域ごとの人口比や土地の利用法など様々な事柄が共有され、議論されてその分配方法が決定されたという。しかし結果的にはパレスチナに居住するアラブ人・ユダヤ人など計193万人の人口のうち3分の1を占めるユダヤ人に56%の土地を与えるという、アラブ人からすればかなり不公平な決定となった。これにはユダヤ人から支援を受けていたアメリカ政府の意向が反映されていると言われている。当然この決議にアラブ諸国は一斉に反対をした。そもそも1945年3月31日時点でユダヤ人が占有していたパレスチナの土地は全体のわずか6%程度であり、その数字から見れば、全体の56%という数字はとてつもない飛躍だった。

この国連決議の翌日から、この決議に反発したアラブ人によるユダヤ人への襲撃・焼き討ちなどが行われ、ユダヤ人も応戦、パレスチナは紛争状態となった。この頃のイギリス軍はここまでエスカレートした事態においての治安維持能力がもはや無く、12月4日には「1948年5月14日真夜中をもって委任統治を終了し撤退」することが決まった。けれども1948年5月15日になるまでは、イギリス軍はパレスチナ国内に駐在しており、この事態はパレスチナ全土を巻き込んだ戦争とは言い難い。そもそもまだイスラエルもパレスチナも国としては存在しない。あくまでも、イギリス委任統治領におけるイギリス軍に放置されたユダヤ人とアラブ人による紛争状態である。けれどもこの紛争に向けられた熱量は、ユダヤ人もアラブ人も、双方ともイギリスへの反発の感情が多分にあったのではないかとも推察される。

この紛争を見て、様々なアラブ地域から義勇兵が集まり、1948年2月を迎える頃にはアラブ救世軍やアラブ解放軍が結成された。ここで明確にしておかなければならないことがある。このユダヤ人とアラブ人の争いは、必ずしも宗教戦争ではないということだ。キリスト教世界の住民がユダヤ人を迫害する理由はあるにしても、キリストの神性とその犠牲を重要視しないイスラム教に置いては、ユダヤ教は迫害の対象にはならない。この戦闘に参加した当時結成されて間もないアラブ連盟の初代事務総長アブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザームは、かねてから「反ユダヤ主義行為」を非難する人物として知られたが、彼のアラブ連盟もこの戦闘に参加をすることを余儀なくされたとき、こんなことを言った。

『個人的にこれは他者を排除するための戦争であり、モンゴルの大殺戮や十字軍の戦争と並び称されるような危険な虐殺の戦いになると思う。ユダヤ人は我々に戦争を強いないでほしい。義勇兵はパレスチナの人口を遥かに超えると私は考えている』

ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを組織し、世界中のユダヤ人に向けて召集をかけた。その結果、従軍経験のあるユダヤ人も含め7万人ほどの兵力が誕生した。武器についても第二次世界大戦終結直後のヨーロッパ各地よりあらゆる方法で入手し、銃火器はもちろんのこと戦車など機甲兵力も充実したものとなった。

1948年3月になると、アラブの軍隊はエルサレムを包囲して、エルサレム周辺では双方の武力衝突が頻繁に発生するようになった。この頃に発生した痛ましい事件、というより戦争犯罪が、「デイル・ヤシーン事件」である。現在の西エルサレムにあったデイル・ヤシーン村をユダヤ人の戦闘部隊が包囲し、老人や女性・子供を含む村人を虐殺した。事件当日の村人の総人口は、村人の証言により推測すると、750人前後だった。そのうち殺害されたのが、ユダヤ側の発表では254人、しかし現在では107から120の間だったのではないかと考えられている。いずれにせよこの事件はエルサレム近郊に住んでいたアラブ人に大きな恐怖感を与え、アラブ人のパレスチナからの脱出が始まった。

1948年5月14日、イギリスの委任統治が終了するこの日の午後、現イスラエルのテル・アビブのテル・アビブ美術館にて、ユダヤ人指導者ダヴィド・ベン=グリオンが「イスラエルの地はユダヤ人誕生の地である」から始まる独立宣言を読み上げ、ユダヤ人国家「イスラエル」の建国と独立が宣言された。イギリスはパレスチナから完全に撤退した。

そしてこの日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに対し宣戦布告した。後にサウジアラビア、イエメン、モロッコもパレスチナに軍を派遣した。これが、第一次中東戦争、別名「イスラエル独立戦争」である。結果はイスラエルの勝利に終わり、イスラエルは国連決議で定められた土地以上の地域を占拠し、実効支配を始めた。そしてこの戦争により、70万とも75万とも言われるアラブ人が故郷を捨てて難民となった。それは単に住むところが無くなっただけにとどまらず、土地、財産、所有物、そして彼らの社会、文化、アイデンティティ、政治的権利、民族的願望の破壊に他ならなかった。悲しいかな、1900年前にこの地でローマ人がユダヤ人に対して行ったことを、今度はユダヤ人がパレスチナのアラブ人に対して行った。この出来事をパレスチナのアラブ人は悲劇の記憶と共に「ナクバ」と呼ぶ。5月14日はイスラエル人にとっては建国記念日だが、翌日の5月15日はアラブ人にとってはナクバの日として記憶されている。

その後このイスラエルとアラブ諸国の中東戦争は第二次、第三次、第四次と繰り返されることになるが、いずれもイスラエルの勝利に終わっている。

>>第四部:〜戦争を終わらせる努力の成果と、その喪失〜