Crascul-Ignission

答えのない問いを共に考える、静かな学びの場

大人の自習

イスラエルとパレスチナ:第一部

〜旧約聖書の時代からユダヤの崩壊まで〜

天地創造と12部族長

考古学的な調査によると、だいたい紀元前3000年頃から、カナンと呼ばれていた土地(現在のイスラエル、パレスチナ、レバノン、ヨルダンなど)に現在のユダヤ人やアラブ人と同じ古代セム系民族が集落を築いていたことが確認されている。

旧約聖書の創世記によると、神が7日間で世界を創ったあと、楽園にアダムを創り、後にアダムの肋骨からイブを創った。その後イブが蛇に唆されて禁断の果実である「善悪の知識の実」を食べたことで神を怒らせ、楽園を追放され、堕落した状態にされた。キリスト教世界では一般的にアダムとイブは全人類の祖とされているが、ユダヤ教世界ではこのアダムとイブがユダヤ人の祖であるとし、他の民族と明確に区別をしている。

このあと地上では様々な出来事がおこる。誰でも知っている有名なエピソードだと、ノアの方舟やバベルの塔、イスラエル人たちの出エジプト、モーセの十戒、ユダ王国とイスラエル王国の成立、ダビデ王とソロモン王、ユダヤ神殿の完成と破壊、第二神殿の建設とその破壊、イエスの父ヨセフ、イエスキリストの誕生などであるが、ここに名前が登った人々は全てユダヤ人であり、すなわち、アダムとイブの子孫ということになる。

そして「ユダヤ人」と「イスラエル」ということに焦点を当てると、旧約聖書によれば、アダムとイブの遠い子孫である遊牧民族の族長アブラハム(紀元前17世紀頃か?)が神から祝福を受け、「諸民族の父になる」という約束を与えられた。そしてアブラハムがメソポタミア(チグリス川とユーフラテス川の間で世界最古の文明が​​発祥したところであり、だいたい現在のイラク、シリア東部およびイラン南西部)のウルを出発してカナン(現在のイスラエル/パレスチナ)の地を目指したところから、イスラエルの歴史がはじまる。

アブラハムの宗教という言葉を聞いたことがある人も多いと思うが、このアブラハムこそが、その「預言者アブラハム」である。アブラハムには2人の子供がいた。イシュマエルとイサクである。2人は母親は違ったが、アブラハムの息子たちである。聖書やイスラム教のコーランによると、イサクの子孫がユダヤ人であり「イスラエルの民」になり、イシュマエルの子孫がイスラムのアラブ人になったという。イスラエルの民とはユダヤ人であり、ユダヤ人とは旧約聖書に書かれた契約や教えに従って生活する人々のことである。キリスト教は西暦紀元1世紀にユダヤ教から派生した宗教であり、アブラハムの子孫である「ナザレのイエス」を神の子として、救世主・大祭司・大王と認め、イエス以後の神との契約と歴史を記した新約聖書を旧約聖書とともに正典(啓典)とするものである。そしてイスラム教は紀元7世紀に中東で起こった、預言者ムハンマドの教えに基づく一神教である。イスラームという言葉はもともと「降伏」「服従」を意味し、神の意志への服従を意味する。

さて、アブラハムの息子イサクの息子がヤコブであり、神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束したという。ヤコブはこの契約により「イスラエル」と改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった。ヤコブには12人の息子と数人の娘がおり、12人の息子たちそれぞれが「イスラエル12氏族」の長となったとされている。

そしてヤコブの末子のヨセフは、兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされてしまうが、夢の解き明かしと実力でエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う。そしてその後数百年に渡り、彼らはエジプトで暮らすことになるが、エジプトで王朝が変わると、今度は彼らはエジプト人から迫害され、奴隷として生きることを余儀なくされる。奴隷の時代が400年程続いた後に登場するのが、有名なモーセである。紀元前13世紀頃、エジプト人として教育を受けたモーセは神から召命を受けて立ち上がり、イスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し、モーセは海を二つに割ったり数々の奇跡で追跡するエジプト軍からイスラエル人を守った。そして神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ半島を放浪した。この間に、モーセはシナイ山で神から十戒を授かる。十戒は多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体と契約を結ぶ。そして様々、そして膨大な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される。そして彼は遂に、イスラエル人たちをカナンに帰還させた。このイスラエル人たちの出エジプトは、エジプトで発見された石碑に書かれた碑文によると、どうやら事実である。

カナンに戻ったイスラエル人たちは、それから200年ほどをかけて少しずつ周辺地域を制圧していく。だから聖書の中のこの時代は、軍事的なエピソードが多い。そして預言者ですら、軍事的な判断を通して神の意思を伝えたとされる。

この時代において最も有名な登場人物は、ダビデ王とその息子のソロモン王である。ダビデ(紀元前1004年‐紀元前965年頃)はまず南部のユダの王となり、次いで北部のイスラエルの王となった。そしてエルサレムに遷都し、外敵を破って王国を確立して旧約聖書中最大の賛辞を受けている王である。旧約聖書の詩篇に収められた歌の多くはダビデの作になるものとされており、文武に秀で神に愛された王として描かれている。

ダビデ王が創った王国はその息子のソロモン王の時代に最盛期を迎える。イスラエル王国の総人口は500万人に達したとされる。当時の世界人口の推計は5000万人であり、日本の人口の推計は10万人程度である。彼はダビデがエルサレムに運び込んだ「契約の箱」を安置するための壮麗な神殿を建築してユダヤ教の中心地としてのエルサレムを確立し、次いで自らのために豪華な宮殿を造営した。その富の噂を聞きつけて遠国からの献納が絶えなかったとしている。新約聖書の中でも「ソロモン王の栄華」といった言葉が登場する。またソロモンは知恵に優れた者とされており、格言集である箴言はソロモン王に帰せられている。しかし、ソロモンは神殿や宮殿の造営を過酷な課税で賄っていたために、ことに北部の反感を買った。そしてソロモン王の死後、息子のレハブアムが王位についたとき、民はそれらの軽減を訴えたがレハブアムは断り、さらに厳しくすると答えたためイスラエル王国は北部の部族は離反して、エジプトに追放されていたソロモンの家来ヤロブアムを呼び戻して王とし、新たに北王国を作った。これによりイスラエル王国は北王国(イスラエル)と南王国(ユダ王国)に分裂することになる。北王国の都はシェケムからティルツァ、サマリアと移り変わったが、南のユダ王国の都は旧王国の都だったエルサレムにあった。

その後、北王国は紀元前722年にアッシリア(現在のイラクに栄えていた国)により滅ぼされ、10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された(アッシリア捕囚)。サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人で、北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されているが、その行方が文書に残されておらず、捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制を失って他の周辺諸民族の中に埋没し、次第に十部族としてのアイデンティティを失ったといわれている。そのため、南王国の2部族によって「失われた10部族」と呼ばれた。なお、サマリアには後世に独自に発達したユダヤ教と一部の祭祀を同じくする古来の信仰が残存し、サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。

南王国のユダは、紀元前597年に新バビロニア王国の支配下に入りなんとか国を維持したものの、新バビロニア王ネブカドネザル2世によってエルサレムは攻撃を受け、紀元前586年7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。これらはバビロン捕囚と呼ばれるが、実際の捕囚人数は不明。聖書記述における最高捕囚人数は2万人であるが、考古学的発掘と調査によりバビロニアによる滅亡前のユダの人口は約7万5千人であったと推定されるため、バビロンに追放されたのは最高でも25%で、残りの大多数がユダに留まったと推察されている。

紀元前539年に新バビロニアがイラン語系民族のアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされた時、ペルシア王キュロス王(2世)の布告により、ユダヤ人たちのイスラエルへの帰還が始まった。すぐに破壊されたエルサレム神殿の再建が試みられたが、他民族の抵抗により神殿復興は叶わなかった。ダレイオス1世の時代になってようやく神殿建設が許可され、紀元前515年にエルサレム神殿も再建(第二神殿)された。この神殿がいわゆる「第二神殿」であり、ハスモン王朝時代に拡張され、イエス・キリストの時代にまで至っている。その後、アルタクセルクセス王の時代に「モーセの律法に詳しい書記官」であるエズラがペルシャ帝国からエルサレムに派遣されて、モーセの律法の復興運動を起こした。またエズラは外国人との結婚の無効宣言を発し、ユダヤ人の純化運動を進めた。

その後もユダヤ人とペルシア帝国は良好な関係を継続した。ちなみに北王国の生き残りのユダヤ人と混血していたと考えられるサマリア人について、ユダヤ人はその純血主義によってサマリア人を混血と蔑み、北王国の末裔とは認めず、祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となってしまった。

そしてかつてユダヤ人を解放したペルシア帝国は、後にギリシア人のアレクサンダー大王によって滅ぼされ、ギリシア文化とオリエント文化が融合して形成されたヘレニズム時代が到来した。その中でユダヤ人はアレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と激しく対立していった。

紀元前140年頃から紀元前37年までのユダヤ人王朝ハスモン朝の時代にかけて、ローマ帝国が勢力を拡大してきたが、ユダ王国はローマ帝国と同盟を結無事で独立を維持し、その領土も拡大し、エドム地方なども含まれるようになった。このエドム人にもユダヤ教の布教が行われ、ユダヤ人に同化した。このエドム人とは、旧約聖書によると、預言者アブラハムの息子のイサクの息子の1人であるエサウの末裔たちであるという。

紀元前37年、ハスモン朝が王位後継者を擁立できないでいる中で、ローマの元老院は王族ではなく、旧エドム人でありユダヤの武将の息子であったヘロデを王に任命し、このヘロデ大王によってヘロデ朝が創始された。彼はローマとの協調路線を重視し、実質的にユダ王国はローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設したという。その数年後には「ユダヤ属州」が創設され、州都はカイサリアに置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。

この頃、ナザレにイエス・キリストが生まれた。(生誕年は不明:現代の定説では紀元前4〜6年)新約聖書によるとイエスが30歳のとき、人々に人生や神について説き始めた。当時のナザレやエルサレムの一般的な宗教は当然ながらユダヤ教だったが、彼の語ることはユダヤ教の教えとは全く違うものだった。そしてイエスが他のあらゆる宗教指導者たちと大きく異なっていたことは、「自分が神の子であり救世主としてこの世の中に遣わされたものだ」と説いたこと、「ユダヤ教の様々な規則は神が人に対して示した規則ではなく、人間が人間に対して命令している規則であると明言したこと」、「裕福なユダヤ教の指導者たちは他者には奉仕を要求するが自分は全く仕事をしようとしないと批判したこと」、そして「売春婦や貧困者・病人など社会的弱者に慈悲の手を差し伸べ彼らを助けるために奇跡を起こしたこと」だった。

3年と数か月にわたりイエスはあらゆる村や町の街角や教会で人々に説法をし、時には何千人にもパンとワインを振る舞い、時には病で苦しむ者を癒して人々のために働き続けた。その結果、イエスには彼に従う大勢の弟子ができ、加えて大勢の群衆がイエスの後を追うようになった。そんな光景を目の当たりにして当時のユダヤ教の指導者たちは危機感を覚え、なんとかイエスを排除しようと考えるようになる。そして彼らはイエスを「ユダヤ教の律法を無視し、神を冒瀆した罪」「自身を神の子と名乗った罪」により捉えることを決めた。

最後の晩餐の翌日、ユダの裏切りによりイエスは捉えられ、ユダヤ教の祭司のもとに連行され、イエスが「自分を神の子」と主張し「ユダヤ教のあり方を批判していること」ついて、その罪は死に値するという判決が下された。しかしユダヤの法律では人を殺すことが許されていない。そのため当時のユダヤ教の指導者たちはローマ人にイエスを処刑させることを思いついた。彼らはローマ帝国ユダヤ属州総督のローマ人、ポンティオ・ピラトの前にイエスを引き出し、彼を「ローマ帝国への反逆罪」で死刑にすることを求めた。新約聖書によると、このときピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかしユダヤ教の指導者たちに先導された民衆たちの、イエスの「死刑」を求める大合唱に押されて、彼はイエスの十字架刑を決断してしまった。

十字架への磔は当時の最も重い刑罰である。ただ単に磔になるだけではなく、牢獄から刑場に至るプロセスの全てがこの磔という刑罰を構成している。執行者たちはまずいばらの冠をつくって受刑者の頭にかぶせ、それから受刑者は40回鞭で打たれる。この鞭には動物の骨や金属がついており、受刑者の中にはこの鞭打ちだけで死に至る者もいたほどに酷い苦痛を与えるものだったらしい。それに耐え抜くと、傷だらけの体で自分が磔になる重い十字架を自ら背負って長い道のりを歩かされ、やっとの思いで刑場に辿り着くと受刑者はそこで全ての衣服を剥ぎ取られ、手首と足を十字架に釘で打ち付けられ磔にされた。そして脇腹を槍で突かれて、長時間にわたる断続的な窒息状態が続く。最後に長い棒の先に付けられた毒を飲まされて絶命し、それを確認するために執行者たちは受刑者の体を槍で刺して完全なる彼の死を確認する。イエスがゴルゴダの丘で磔にされたのは西暦30年4月7日金曜日のことである。

さて、ここで確認しなければならないことは、実際にイエス・キリストを処刑したのはローマ人だったかもしれないが、イエス・キリストが処刑されるように仕向けたのは大勢のユダヤ人だったということだ。彼らはあたかも正当にキリストを処刑すべくローマ帝国の威厳を借り、しかも磔という当時の最も残酷な処刑方法で、ローマ市民権を持つものには決して課せられることのなかった刑罰を選択させた。おそらくはこのことは、ユダヤ人たちがキリスト教世界で迫害される一つの、けれども大きな理由となっている。

その後、西暦66年から73年にかけて、ローマ帝国とユダヤ属州に住むユダヤ人との間で「第一次ユダヤ戦争」が行われ、ユダ王国やエルサレム並びにエルサレム神殿は徹底的に破壊された。現在ユダヤ教徒たちが祈る「嘆きの壁」は、この時破壊されたエルサレム神殿(ヘロデ神殿)の外壁の一部である。前述のヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。広く知られている通り、当時のローマ帝国は被支配民族の文化を尊重した巧みな統治政策を示しているが、当時一般的であった多神教文化の世界の中で、一神教を奉ずるユダヤはやはり特殊な文化圏に見えた。そして王族出身の正しい王のいないユダヤの人々は、互いに争い合い主導権争いと仲間割れを繰り返すようになっていた。しかしユダヤの人々は、王がいなくとも「反ローマ」で結束し反乱を起こした。

フラウィウス・ヨセフスによると、「ユダヤ戦争」が勃発した発端はカイサリアにおけるユダヤ人の殺害であったという。当時のユダヤ属州総督フロルスがエルサレムのインフラ整備のための資金として神殿の宝物を持ち出し、これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こった。ローマ側は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾できると考えたが、逆に反ローマの感情でユダヤ人を結束させることになってしまった。ユダヤ属州の近くのシリア属州の総督が軍団を率いて暴動の鎮圧に向かうも、ユダヤ人反乱軍の前に敗れてしまう。この事態を重く見たローマ皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて事態の鎮圧に向かわせた。ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、まずはエルサレムを周辺都市から孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。こうしてウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した。

68年4月、ローマで内覧が勃発し、ユダヤ戦争は一旦戦線膠着状態となった。結果的にローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは懸案のエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせた。そして70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って頑強に抵抗したが圧倒的なローマ軍の前に敗北、エルサレム神殿はユダヤ暦第6月8日、9日、10日に火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落し、徹底的に破壊された。この戦争により多くのユダヤ人が殺害・奴隷化された。ティトゥスがローマへと凱旋したときつくられたのが、フォロ・ロマーノに今も残るティトゥスの凱旋門である。そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿がはっきりと刻まれている。

これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住も禁止された。ローマ皇帝ハドリアヌスの治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿の跡にユーピテルの神殿を築き、都市名をアエリア・カピトリナと改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年にバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)を起こしたがこれも鎮圧された。エルサレムはローマ植民市アエリア・カピトリナとして再建された。

これを期に、ローマ人はユダヤ人が命名した「イスラエル」や「ユダヤ属州」という地名も廃止し、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来するパレスチナという地名をあえて復活させた。以来ユダヤ人は1900年あまりの期間、統一した民族集団を持たず、多くのユダヤ人が離散してヨーロッパを中心に世界各国へ移住した。もしくはその後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在のパレスチナ人の一部になったと考えられる。

エルサレムを追われ、離散することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、律法の学習を拠り所とするようになった。思えば紀元前1000年頃にイスラエル王国が建国されてから、南北に分裂し、北王国が滅ぼされて10支族を失い、残った2支族のユダヤ人たちも、バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代・ローマ時代と全ての時代を通して、ユダヤ人の歴史とは苦難の連続であった。しかしながら、ユダヤ人は他の民族のように歴史の彼方に消えてしまわなかった。現在でも苦難を乗り越えてユダヤ人は存在し続ける。それは彼らが1000年以上にわたる逆境と流転の旅の中で、「ユダヤ民族」としての独自性を保つための基礎をきちんと作り、宗教としてのユダヤ教が確立し、その繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとしてきた結果なのである。しかし同時に、宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌い、異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義があるとも言われている。

>>第二部:〜イスラム教の成立と中世におけるユダヤ人〜