
- 「オスロ合意」という歴史的奇跡を成し遂げた戦士たちの決断
- イツハク・ラビン暗殺という「神が対話を拒否した瞬間」の意味
- ユダヤ人とパレスチナ人、双方が抱える想像を絶する苦悩の正体
- 「隣人の幸せ」を願うために必要な、武器を置くという偉大な勇気
争いを終わらせる努力の成果と、その喪失
1988年11月15日、初代大統領となるヤーセル・アラファートがパレスチナの独立宣言を発表し、パレスチナを国号として定めた。そして1993年「オスロ合意」によってパレスチナ自治政府が発足し、ヨルダン川西岸地区においてパレスチナ人による自治が始まった。
この「オスロ合意」とは、この状況を見るにみかねたノルウェー政府が仲介して実現させた歴史的な合意だった。ここで重要な人物・組織は、当時のイスラエル首相イツハク・ラビンと、パレスチナ解放機構(PLO)の政党ファタハの代表を務めたヤーセル・アラファトである。
二人の英雄:ラビンとアラファト
イツハク・ラビンは戦争の英雄である。退役後はアメリカ勤務の外交官や国防大臣を務め、70年代と90年代の計2度、イスラエルの首相に就任している。当時のイスラエルでは、和平を求める声と戦いを継続する声とで世論が二分されていた。2度目の首相就任時、イツハク・ラビンはパレスチナとの平和と共存を訴え、選挙で過半数を獲得して2度目の首相に就任した。就任当初から、和平に反対する人々からの非難に晒されることになる。
ヤーセル・アラファトもまた、第二次中東戦争から前線で戦い続け、パレスチナ解放運動を支えたゲリラ部隊を率いた英雄である。彼が支えて育てたファタハはPLO(パレスチナ解放機構)の主流派になった。ファタハは発足当初はパレスチナの解放をスローガンに掲げていたが、1990年に勃発した湾岸戦争以後、次第にイスラエルとの戦闘継続よりも、対話による共存を謳うようになった。
「解決不可能」と思われた問題を収束させた希望
この2者の存在により、和平成立へのピースが埋まりつつあるように思われた。そしてノルウェーの仲介により「オスロ合意」は成った。「オスロ合意」により以下の2点が確認された。
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1相互承認 イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。
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2暫定的な自治 イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。
これは「解決は不可能」と思われたパレスチナ問題を収束できる希望を世界に見せた歴史的な合意だった。和平合意とは、決して一方の人間の意思だけでは成立し得ないものである。どちらが強い、どちらが弱い、どちらが勝ったという価値観とは別の視点から、イスラエルとパレスチナ双方の平和への願いが形になって、それを支援する国際社会の輪が彼らを後押しして、この和平合意は成ったのである。
この功績により、イツハク・ラビン、ヤーセル・アラファト、そしてシモン・ペレス(イスラエル元首相)はノーベル平和賞を受賞している。そして1994年「カイロ合意」によってガザ地区もヨルダン川西岸と共にパレスチナの統治下に組み込まれた。
1995年11月4日、虚しく潰えた和平への道
しかしながら、この和平への雰囲気はあっという間に、虚しく潰えることになる。1995年11月4日、イスラエル第2の都市であるテルアビブで催された和平集会に出席したイスラエル首相イツハク・ラビンが、和平反対派のユダヤ人青年により至近距離から銃撃され、死亡した。イツハク・ラビンが民衆の中をゆっくりと歩いていた時、背後から数発の銃弾が発射された。映像を見ると、本当に手を伸ばせば届きそうなほどの至近距離からの銃撃だった。
本当に多くの人々が和平を願っていたはずなのだ。この暗殺事件の翌日から何十万人ものイスラエル国民がイツハク・ラビンの死を悼むために、彼が暗殺された広場に駆けつけ、ろうそくに火を灯しながら平和の歌を歌った。ラビン首相の死を悼む彼らの脳裏によぎっていたのは、「これでまた戦争が始まってしまうのではないか」「こんなに多くの人が平和を求めているということを世界に示そう」という思いだったのではないだろうか。
暗殺の2日後に行われた葬儀には、アメリカのクリントン大統領やエジプトのムバラク大統領など、世界中の指導者が駆けつけた。ヤーセル・アラファトは彼の棺に花をたむけ、クリントン米大統領は涙ながらに追悼のスピーチを行った。これはとても印象的な情景だった。クリントンのスピーチは「さらば、友よ」と締めくくられた。こんなにも多くの人々が平和を願っているのだ。しかし平和はどんどん遠ざかる。世界は「多様性」に満ちており、許すことにも壊すことにも同じように痛みが伴う。そして壊すことは、守ることや創ることよりもはるかに容易なのである。
憎しみの連鎖:ガザ地区を巡る現状と背景
その後のイスラエル国内は次第に再び強硬派の意見が多数を占めるようになり、パレスチナにおいても、ヤーセル・アラファト議長が率いるファタハはガザ地区の統制に困難を極めた。ガザ地区は実際はパレスチナ自治政府の統制下にはなく、ハマスの統治下にある。
2026年現在継続中の戦闘の直接の発端は、「2023年パレスチナ・イスラエル戦争」である。2023年10月7日、パレスチナ側からの宣戦布告なしに、海・陸・空からイスラエルへの大規模攻撃が開始された。この日の襲撃によって計約1200人の一般人が殺害され、251人が人質として連れ去られた。報道ではガザ地区の惨状のみがクローズアップされており、本当に痛ましいが、一連の戦闘はイスラエル政府による「ハマスに拉致されたイスラエル人の奪還作戦」である。
まとめ:平和とは、敵との間に築くもの
以上が、大まかであるが、旧約聖書の時代から現在に至るまでのパレスチナ問題の概要である。こんなに悲しい歴史があるだろうかというくらいに、この地の歴史は悲しい出来事に満ちている。このパレスチナ問題が難しいことは、どちらにも理屈があることだ。実のところこの争いは土地をめぐる争いなのだ。
本当に気の毒なのはパレスチナの人々である。自らの合意なく勝手にユダヤ人に56%もの土地を渡せと言われた。だがなぜ、イスラエル人たちは2000年前に自分たちが経験した苦難を、パレスチナ人に与えるのか。このようにやられてはやり返し、殺しては殺されて、このままでは本当にどちらかが全滅するまで戦いをやめられないのではないかと不安に思う。
その最初で最後のチャンスが、1993年の「オスロ合意」並びに1994年の「カイロ合意」だったのだろう。イツハク・ラビン首相の暗殺さえなければと思ってしまう。イツハク・ラビンもヤーセル・アラファトも、元々は戦士だった。互いに戦士として闘いあった彼らが幾多の戦いの末に和平を願い、議会や民衆を説得し、和平合意を見出した。
きっと和平を願った彼らは「今隣にいる人の幸せ」を願う選択をしたかったのではないだろうか。
死者のために戦うこともできる。しかし今あなたの隣にいる人の笑顔や食卓の幸せを守りたいと思った時、もしも戦争を止めるという選択肢があるのなら、勇気を持って武器を置き、信仰と礼節をもって相手と言葉を交わし、握手をするという偉大な行動をできる人々が、過ぎ去った時の中に存在していたのだということを、私たちは決して忘れてはならないと思う。
最後にイツハク・ラビンの言葉を借りてこの記事を終えることにする。
「和平は敵との間で築くものである。友人との間に築くものではない。」
イツハク・ラビン「正解」のない問いを抱えながら、私たちはどう生きるか。
あなたの思考のプロセスに、この物語が寄り添えることを願っています。
































