Crascul-Ignission

答えのない問いを共に考える、静かな学びの場

社会の違和感

LGBT制度化の違和感 │ イタリアの静かな共生に学ぶ、理屈を超えた愛情の形

私はLGBTの方々の尊厳や人権を守ることには肯定的であり、実際に職場や私生活においても大切な同僚や友人がいます。現代社会が進める「制度化による正義」は、時に人間の情的な納得感を追い越し、新たな分断を生んでいます。本記事では、著者が15歳で経験した未解決の性的加害の記憶を起点に、法や言葉で過剰に区切ることのリスクを犯罪学の視点から分析。さらに、イタリア・ミラノの「美しい無関心(自然な共生)」というありふれた日常から、私たちが目指すべき理屈を超えた関係性のあり方を問い直します。
この記事の視点
  • 1. 男性・女性とLGBTと、公平な議論をするべき理由
  • 2. 「権利の保護」と「特権の創出」の境界線
  • 3. 議論の「聖域化」による対話の喪失
  • 4. 「理解」から「称賛(推奨)」への変質
  • 5. イタリアの事例から学ぶ「主観」と「客観」の衝突を超えた共生

1. 15歳の夏、夢の島で。社会が無視した私の声

私は戸籍上も性自認も生まれてからずっと男性ですが、まだ15歳だった高校1年生の夏に、男性に襲われた経験があります。場所は東京都江東区の夢の島陸上競技場の外周に設置されたランニングコースでした。とても暑い日でした。時刻は午前11時頃だったと記憶しています。私は中学校からずっと陸上競技部に所属しており、その日は高校に進学してから初めての試合でした。すでに何度も訪れている慣れ親しんだ会場で、自分が走るレースの2時間ほど前にゆっくりとウォーミングアップを始めたところでした。この日は少し体が重かったので、入念にジョギングをして少し汗をかこうと、競技場の周りをゆっくりと走りはじめました。

夢の島(東京都江東区)は1950年代後半から約10年間、東京23区のごみ最終処分場(東京湾埋立14号地)として機能した後に埋め立てが完了し、公園や陸上競技場(夢の島競技場)として整備された場所です。周囲には海と直結する運河が流れており、植栽された多くの木々などの植物が茂る気持ちがいい場所です。

走り始めてまだ1kmにもならない頃、茂みの中から男性に声をかけられました。40歳過ぎの痩せ型の男性でした。白髪の混じった髪の毛を綺麗にオールバックにして、白のランニングシャツに緑の短パンという格好でした。まず呼び止められて立ち止まり、「少しだけ話をしよう」と言われて「少しだけなら」と答えたところで手を掴まれ、そのままその人の手が私の局部を触りました。最初はアクシデントのようにさりげなかったのが、次第にそれが確信に変わりました。そこで「本当にやばい」と思って急いでその人の手を振り解いて逃げようとしましたが、大人の腕力に15歳の少年では敵いません。叫ぼうにも、気が動転していてうまく声が出ませんでした。

⚠️ 実体験の記憶 そのまま、「君は優しいね」「いいチ⚫︎チ⚫︎してるね」「何時に終わるの」「どこに住んでるの」「車で送っていってあげようか」「お小遣いいらない?」という一連の会話をひたすら拒絶しつつ、 全力で振り解いてチームのベンチに駆け戻りました。
すぐに先輩に伝えて、警察に電話をしてくれと頼みました。顧問にも伝えました。けれども結果的にそれは実行されず、私は他校の生徒などに注意喚起をしに走ったことを覚えています。学校も、周囲の大人も、適切な対処をしませんでした。その後の一週間ほど、私はショックから食事も喉を通りませんでした。

「もし被害者が女の子で、加害者が男性だったら」おそらく事件になったのでしょう。でもこの私のケースでは、被害者は男の子で、加害者はおそらくはゲイでした。だから事件にはなかったのだと思います。少なくとも私はそう考えています。男性・女性からLGBTの方々への性的加害があることも私は知っていますが、その逆に、私のようにいわゆる性的マイノリティの人から加害を受けた男性・女性もいるのだということを、私の経験を根拠にこの場に記しておきます。

改めてお伝えしますが、私はLGBTへの理解を社会が示し、彼らの尊厳や人権を守ることには賛成です。しかしながら、LGBTを推進し社会を作り変えたり、政治的な「正しさ」を押し付けたり、このテーマを聖域化して議論をすることすら許されないような社会的な空気感は、逆に「差別」や「逆差別」を増長させ、守られてきた社会の安全性や社会の発展の可能性を破壊することになるのではないかと、大きな危機感を感じています。

2. 「権利の保護」と「特権の創出」の境界線

法的な観点から言えば、LGBT法や関連する施策の目的は、マジョリティ(多数派)が既に持っている「当たり前の権利」をマイノリティ(少数派)にも同等に適用することです。例えば、パートナーシップ制度などは「結婚している人なら受けられる公的サービス」を同等にすることを目指しています。そのことには心から賛成します。

しかし、このプロセスが急進的に進んでおり、「LGBTの属性を持つ人々が、メディアや制度によって過剰に守られている」「今まで男性・女性で成り立っていた社会構造が改変されようとしている」という印象を受けます。その一つが「トイレの共有」です。幸いなことに市民からの抗議によりこのトイレはなくなりましたが、こういうアイディアが議論を尽くされずに平然と実行されてしまうということに私は強烈な違和感を感じます。このテーマはとてもデリケート且つ重要な社会問題につながっているので、詳しく説明をしなければなりません。

言葉で区切るほどに、私たちは「気配」を見失う

「男・女」という生物学的な境界線は、単なる記号ではありません。それは、人間社会が数千年の歴史の中で構築してきた、最も基本的な「安全保障上のゾーニング(空間分割)」です。この境界線が曖昧になることは、以下の3つの側面で深刻な機能不全を引き起こします。

  • 1
    物理的・空間的ゾーニングの崩壊 犯罪学における「状況的犯罪予防」の観点から、更衣室、トイレ、避難所などの「性別による区分け」は、潜在的な加害者が被害者に接近することを防ぐ物理的な障壁(バリア)として機能してきました。しかし「心の性」という主観が空間へのアクセス権を決定するようになると、客観的な「外形による排除」が不可能になります。結果的に加害者は「正当な理由(主観的な属性)」を持ってターゲットに接近できるようになり、犯罪の事前検知(「女性の更衣室なのになぜここに男がいるのか?」という違和感)が機能しなくなります。
  • 2
    社会的・言語的ゾーニングの崩壊 犯罪を抑止し、被害を告発するためには、「誰が、誰に、何をしたか」という明確な言語が必要です。しかし「加害者である男性」が「女性」や「G」を自称したり、「どちらでもない(Q)」という盾を使ったりすることで、統計的な犯人像や法的な定義が霧散します。その結果として、性別の属性を意図的に簡単に複雑化できることで、15歳の私の被害が事件化されなかったように、被害者の心の傷とは関係なく事件性そのものが軽薄に扱われる恐れがあります。
  • 3
    システムの悪用リスク 性的少数者の方々自身が犯罪を犯すのではなく、「性的少数者のフリをした悪意ある加害者」が、制度の「余白」を悪用するリスクです。多様性を尊重するあまり、外形的な確認や質問をすることが「差別」とされる社会風潮は、悪意を持つ者にとって最高の「隠れ蓑」になります。本来、弱者を守るための「多様性」という概念が、最も凶悪な捕食者を守るために機能してしまいます。

私はLGBTを否定する人ではありません。信頼しているLGBTの友達もいます。私がこの記事を通して伝えたいことは、現在のような急進的なトランスジェンダリズムの先には、社会の中で一定の機能を果たしてきた境界線が「不自由なもの」として解体され、LGBTにという考えに囚われるあまりに社会的な弱者や子供たちを守ることが難しくなるリスクがあるということです。

3. 議論の「聖域化」による対話の喪失

そしてもうひとつ、現在多くの人が感じているであろう最も大きな問題の一つは、このテーマが「批判を許さない聖域」になりつつあることでしょう。学校においても「くん」や「ちゃん」をつけて呼ぶことが禁止され、日本語すら変わってしまいました。それが良かったのか悪かったのかという議論はここでは割愛します。ただ、現在の社会が、痛みを恐れるあまり、あえて議論や質問をすることを避けているような気がしてなりません。お互いをよく知る機会がないままに、制度を根拠とした社会的な正義が語られている。目指すべきはそんな社会ではなく、少数派・多数派に関わらず誰もが素真に楽しく共存できる社会ではないでしょうか。

いま最も私が危惧していることは、友人だと思っていた同性から告白をされたり関係を求められ、それに応じることができない時、受け入れを拒んだ人が「性的差別主義者」というレッテルを貼られることです。男性と女性の間ですら、告白をすれば必ずうまくいくとは限りません。それは差別ではなく、単純にそのステップには進めないというだけのことです。

📌 現状への懸念
  • ポリコレの圧力: 「理解できない」「不安がある」という素朴な疑問や懸念を口にすることが、「差別主義者」というラベルを貼られるリスクを伴うようになりました。
  • バランスの欠如: 少数派の権利を語る際、同時に「多数派が守ってきた安心感や秩序」とのバランスをどう取るかという議論が後回しにされがちです。

4. 「理解」から「称賛(推奨)」への変質

現在の企業活動やメディア戦略を注視していると、「LGBTへの理解を深めよう」というより「LGBTを推奨する」動きが顕著であるように見られます。 いわゆる「ダイバーシティ経営」において、LGBTへの配慮は「必須の評価項目」となりました。これが「当たり前の尊重」を超えて、「配慮している姿をアピールすること」自体が目的化してしまい、時として「過度な優遇」や「政治的な正しさの押し付け」がすでに行われ始めています。

よく日本の政治家や大臣に女性が少ないということが問題視されていますが、私はこの論調にも甚だしい違和感を覚えます。この論調は、大臣の半分を女性にすれば国が良くなるようにも聞こえますが、それこそまさに性差別ではないでしょうか。性別ではなく適任者を選び任命する。それが正しいあり方だと思うのですが。(ただし、現在の大臣全てが適任かどうかはまた別の議論です。)

5. いま本当に私たちがすべきこと「主観」と「客観」の衝突を超えて

本当に正直なところ、私の感覚では、今の日本で問題なのはLGBTではなく、普通という観念と異なるものを差別したり馬鹿にするという根強い日本の習慣なのではないかと感じます。以前書いた「多様性」をテーマにした記事の中で触れた通り、胸毛を持つ私が公共の電車の中で見ず知らずの人たちから笑ものにされたことを考えても、また日本の社会が挑戦をしにくい雰囲気であることを考えても、日本人は「他者と異なる存在を差別する」というとても根深い習慣を持っています。私はひょっとすると、実は問題なのはLGBTの議論ではなく、むしろこっちの方ではないかと思っているのですが。

話をLGBTの議論に戻します。本当の意味で「一緒に生きるバランス」を取るためには、LGBTの方々の困難を解消すると同時に、「マジョリティ側が抱く不安や、これまで大切にしてきた価値観」も尊重し、話し合いのテーブルに乗せることが必要だと考えます。どちらか一方が「正義」を盾に他方を沈黙させる世の中は、最終的には共生ではなく「分断」に向かうと思うからです。

性自認だけを優先しすぎれば、身体的性別に基づいた区別を必要とする人々の安心が揺らぐ。 身体的性別を優先しすぎれば、自認と異なる生活を強いられる人々の尊厳が損なわれる可能性がある。 このゼロサムゲームのような状況を、対立ではなく「調整」の場に引き戻す必要があります。「自分はこう感じる」という主観を大切にしながら、それを他者との対話の出発点にすること。その誠実な姿勢こそが、現在欠けている「社会的な合意形成」への第一歩になるのではないでしょうか。

そして私たちが解決すべきこの社会的な問題の核は、「個人の主観的アイデンティティ(私はこう思う)」をどこまで「客観的な社会ルール(法や制度)」に反映させるかという繊細な線引きにあるのだと思います。ここにこそ、人類の叡智を集約すべきではないでしょうか。だってこの問題に、どちらが「正しい」とか「間違っている」ということがあるわけがないでしょう。

イタリアの例

ここで私は、イタリアの現状を参考までにお伝えしたいです。イタリアでは、社会の中にLGBTの方々が自然に存在しています。その種の差別を私は聞いたことがありません。様々な業界の中で、LGBTの人が様々な役職や地位を得て活躍しています。しかしイタリアはこの状況を法的に作ったのではありません。様々な議論の時代を経て、一般社会の中で少しずつ合意が形成されたのです。

そして私が日本の現状にものすごく深刻な違和感を感じている理由をもっと正直にいうと、その人がLGBTなのかどうかということは、実は私にとっても他のほとんどのイタリア人にとっても重要なことではありません。法律なんかが無くても、それで雇用の機会が失われることもないし、それで友達がいなくなることもありません。そんなことよりも、ちゃんと仕事ができるかどうか、性格が良い人間かどうかの方がよっぽど大事な関心ごとです。

そして性別をカミングアウトするにしても、私たちは実に簡単な方法を持っています。そもそも言わなくてもいいし、もし言いたくなったら、休憩時間の何気ない会話の中で「私の彼・彼女」「私の元カレ・元カノ」という言葉をサラッと使うのです。たったその一言、それだけです。男性だったら「僕の彼(夫)がね」とか、女性だったら「私の彼女が」みたいに。(個人的に「私の妻が」だけは聞いたことがないです)誰も驚きません。「あー、そうなんだー。で、何食べる?」というノリです。それでいいんです。それくらい自然なことです。だってそこに居るんだから。日本社会も単純にそこを目指せばいいのではないですか。

イタリアにおけるLGBTとは

ここからは、参考までにイタリアにおけるLGBTの方々の社会での立場や過去の議論について紹介していきます。「LGBTの方々の社会での立場」と書きましたが、前述の通り私たちは誰も目の前にいる人の性別を気にしていません。それを気にするのは、相手を恋愛対象として認識した時、もしくは相手から恋愛対象として認識された時です。

イタリアの現状は「強力な法整備によって作られた」のではなく、むしろ「現場の人間関係や文化的な包容力で解決してきた」という、極めてイタリアらしいプロセスを経て今に至っています。いくつかの視点から、イタリアの「絶妙なバランス」の正体を分析してみます。

1. 「法よりも人間」という文化の土壌

イタリアは、バチカン市国に代表されるカトリック教会のお膝元でありながら、実は欧州でも珍しく「同性愛を犯罪とする法律」が19世紀末(1890年)から存在しませんでした。1889年に公布され、翌年に施行されたザナルデッリ刑法は、当時の自由主義的な法哲学者ジュゼッペ・ザナルデッリによって編纂されました。彼が同性愛を刑法から外した理由は、主に2つの近代的な考え方に基づいています。

  • ・「プライバシー」と「道徳」の分離: 「成人が合意の上で、私的な空間で行う行為は、たとえ道徳的に好ましくないと考える人がいたとしても、国家が刑罰で介入すべき領域ではない」という近代法治国家の原則が採用されました。
  • ・啓童主義の影響: 「被害者がいない行為に刑罰を与えるのは不合理である」という、フランス革命以降のナポレオン法典の精神を継承していました。

カトリックの影響が強いイタリアで、これほど早く同性愛の非犯罪化が行われたのは画期的なことでしたが、社会的な受容は長い時間をかけて議論され続け、今に至ります。

  • ・「見逃す」という知恵: カトリック的な倫理観では「罪」であっても、国家がそれを「犯罪」として裁くことには消極的でした。
  • ・私生活への不干渉: 「家族や友人の枠組みの中にいる限り、個人の嗜好はとやかく言わない」という、公私を分けるラテン的な寛容さが、議論よりも先に「共存」という事実を作りました。

2. 「法案の否決」が物語るバランスの模索

実はイタリアにおいてもLGBTへの差別を罰する法案(ザン法案)が議論されたことがありました。しかしこの法案は最終的に2021年に上院で否決されました。この時、イタリア社会では「差別は良くないが、この法律は言論の自由を奪い、ジェンダー・イデオロギーを押し付けるものではないか」という激しい議論が巻き起こりました。そして現在イタリアでは、法律ではなく人々の意思によりとても自然にLGBTの方が社会に存在しています。

これはイタリア人の深層心理を理解するためにとても重要なことなのですが、1922年から1943年までのファシズムの時代を経験したイタリアでは、「思想統制」をとにかく嫌います。統制するでも対決するでもなく、とことん話し合います。理屈だけでなく、その人の心情も理解するためにとにかく質問責めにします。そして最後はキッチリと自分の意見を述べます。その頃には、お互いが何を考えてどういう気持ちでいるのかを理解できるようになっているのです。それが、イタリアの非効率ですがとても素晴らしい文化なのです。

💡 3. 「地位」と「実力」による社会統合 イタリアではLGBTの人々が会社や社会の中で重要なポジションにいることが珍しくありません。そもそも誰もその人の性別を気にしていません。気にするのはその人に実力があるのかどうかということと、その人が良い性格の持ち主かどうか、ということだけです。イタリアは「特定の属性(LGBTであること)」を売りにするよりも、「その人がその道のプロフェッショナルとして、どれだけ優れた美学や能力を持っているか」を重視する傾向があります。

・美意識の共有: ファッション、アート、料理などの分野では、感受性の豊かさが尊敬の対象となります。
・個の尊重: 「LGBTだから特別」ではなく、「有能な人物が、たまままLGBTだった」という受け入れられ方です。これは、「特権化」とは逆の、「個の力による統合」と言えるかもしれません。

4. つまり日本の社会はどのようにこの問題に取り組むべきか

現在日本で進んでいるLGBT施策が「法と義務」によって社会を上書きしようとしているのに対し、イタリアは「人間同士の地続きの合意」によって現在の社会を実現させました。つまりイタリアで性別による差別が少ないのは、「ルールとして正しいから」従わなければならないのではなく、「目の前の人間を、その人の歴史や家族も含めて丸ごと認める」という、人間関係の構築がうまくいっているからです。

社会的な解決課題としての「問い」:
日本の現在の議論は、イタリアのような「歴史的な緩やかな合意」がないまま、制度だけを海外から急速に輸入しようとしているために、「制度的な正義」が「人間の情的な納得感」を追い越してしまい、様々な問題が発生しているのだと思います。

究極のところ、良い意味での無関心が一番綺麗ではありませんか。そもそも誰も相手の性別に興味がない。もしもカミングアウトしたいなら普通に「私の彼女・彼がね」という言葉を使ってサラッとカミングアウトする。聞いた方も「へー。あ、コーヒーにミルク入れる?」みたいなノリで普通に受け止められる。仕事の上司には普通にLGBTの人がいる。「あの人頼れるよー。優秀だから。」が当たり前。逆に「ねー、あの人LGBTなんだって」と言われると「ん?だから何?何が言いたいの?あの人は僕の友人だよ。」と言える。

そんな社会の方が、相手への態度や言葉遣いに迷って言わなきゃいけないことも言いにくくなる社会よりも、ずっと機能的で健全で、ストレスがない社会だとは思いませんか?

この、「理屈」ではなく「感覚」と「愛情」で相手を受け入れる社会を作ることが、より良い日本の社会を作ることに繋がると私は思うのです。そうすれば、また私も小さい頃のように、胸毛のことを笑われることを心配せずに、夏でも安心して普通に街を歩けるようになると思うのです。今の日本は、男性の胸毛にですら寛容ではありませんから。

「理屈」ではなく「感覚」と「愛情」で相手を受け入れる社会こそが、未来を作る。

Ignission
🌿 思考をさらに深めるために

「正しさ」で心を切り刻まない。「不完全さ」という美しさと贅沢を味わう。完璧な人なんていない。なのになぜか 他人には完璧を求めてしまう 私たち日本人。